本書の概要
越後の戦国大名・上杉謙信は、一般的に「義の武将」として名高い。しかし近年、複数の評伝(今福2018・2022、山田2020など)が刊行されたことで、上杉謙信の実像が鮮明になりつつある。こうしたなかで、新潟生まれで新潟大学に勤め、『新潟県史』の編纂に参加するなど、越後に深い関係のある池亨氏が、これまでの自身の研究を総括するかたちで上杉謙信を評したのが本書である。目次は以下のとおりである。
上杉謙信のイメージ―プロローグ
越後上杉氏と関東
長尾為景と関東
長尾景虎の覇権確立
「関東管領体制」の挫折
越相同盟の成立と崩壊
上杉謙信の「遺産」と波紋
関東管領から普通の戦国大名へ―エピローグ
本書の内容と意義
目次を概観してわかるように、上杉謙信について扱っているのは「長尾景虎の覇権確立」から「越相同盟の成立と崩壊」までの約半分に留まっている。残りの半分は、戦国時代前期の越後守護上杉氏や長尾為景(謙信の父)、それから謙信死後の上杉氏の動向にも目を配るなど、越後戦国史全体を通覧した内容となっている。
タイトルでは『上杉謙信の本音』としながら、上杉謙信に言及しているのが約半分しかない、という点を問題視する方もいるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。前述のとおり、上杉謙信の評伝は直近の書籍だけでも3冊存在している。これ以上、謙信の詳細な動向をまとめた書籍を出しても、これらとの差別化を図るのは難しいだろう。むしろ、サブタイトルの「関東支配の理想と現実」にあるように、上杉謙信が関東管領であったという点に注目して、室町時代の関東の政治秩序や、謙信が登場する以前の越後の政治情勢を前提として、上杉謙信の性格を叙述するという点に、本書の意義がある。
とくに、謙信以前の越後情勢、具体的には越後守護の上杉房定・房能・定実、および守護代の長尾能景・為景・晴景の動向が通史的にまとまっているものはほかに類書がない。本書でも詳しく記されているが、越後守護上杉氏は山内上杉氏の分家にあたる家であるだけでなく、戦国時代前期に山内上杉氏当主・関東管領を務めていた上杉顕定は、越後守護上杉氏出身であり、両氏はとても深い関係にあった。つまり、戦国前期の関東情勢を考えるうえで、越後の動向は大きく関わってくるのである。そういった点で、戦国前期の越後情勢をまとめている本書は重要な書籍といえる。
また、本書では越後と関東の関係だけではなく、越後と京都の関係についても紙幅を割いて言及している。家永遵嗣氏が明応の政変と伊豆討ち入りの連動性を明らかにして以降(家永1995)、戦国期の都鄙関係が重要な論点となっている。この点を考えるうえで、関東と京都の双方に関わりを持っていた東海・甲信越地域、具体的には駿河今川氏・甲斐武田氏・越後上杉氏の動向が重要になってくると思われる。本書は、こうした側面でも今後の研究に役立てることができるのである。
本書の課題
ただし、本書を読んでいくつか気になった点もあった。まず、基礎的な事実からみると、本書では足利成氏の幼名を「永寿王丸」としている。しかし、「永寿王丸」というのは二次史料にしか登場せず、一次史料から確認できる足利成氏の幼名は「万寿王丸」であることが以前から明らかになっている(百瀬1982)。
また、本書では謙信未婚説を採用している。しかし、近年の研究では、謙信は先代・長尾晴景(謙信の兄)の娘を本妻としていたとする説が有力となっている(黒田2024など)。謙信妻帯説については、近年の説であり通説化していないため、本書では通説に基づいて未婚説を取ったと取れなくもない。けれども、「万寿王丸」については、見解が発表されてからすでに30年以上経過しており、成氏に言及する研究のほとんどが採用しているため、通説として問題ないだろう。
次に、本書で使用されている用語にも気になる部分がある。たとえば、「関東管領・古河公方秩序」という用語である。本書では、長享の乱の終結した永正2年(1505)に成立した、上杉顕定(関東管領)を中心として、足利政氏(古河公方)が顕定に協力する政治秩序を「関東管領・古河公方秩序」としている。また、終期は河越合戦によって足利晴氏(古河公方)・上杉憲政(関東管領)が没落した天文15年(1546)としている。
しかし、管見の限りこれまでの研究で「関東管領・古河公方秩序」という用語、および永正2年から天文15年までを1つの時代とする見方は見たことがない。類似する概念に、佐藤博信氏が提唱した「公方―管領体制」というものがある(佐藤1979)。ただし、「公方―管領体制」は(その順番からもわかるように)政治秩序の中心にいたのは関東管領ではなく古河公方であり、関東管領は古河公方を補佐する存在として捉える見方である。時期区分についても、始期は長享の乱が勃発した長享2年(1488)、終期は越相同盟が成立した永禄12年(1569)に設定している。
たしかに、長享の乱が勃発した時点では足利成氏(古河公方)と上杉顕定は敵対関係にあったから、両者の連携を前提とする「公方―管領体制」はいまだ成立していなかったといえる。しかし、古河公方と関東管領(山内上杉氏)の連携自体は、長享の乱が終結する以前の明応3年にさかのぼるから(駒見2022)、佐藤氏の説を否定したとしても、永正2年に始期を置く理由にはならない。
そもそも、佐藤氏の提言以前の関東戦国史は伝統的な勢力である古河公方・上杉氏と新興勢力である北条氏という二項対立で解釈されてきた。しかし、北条氏も関東管領であり、古河公方・上杉氏に勝利した河越合戦以降も足利義氏(古河公方)を擁立していたという点に注目したのが「公方―管領体制」の研究史上の意義になる。したがって、河越合戦を契機としてみる見方は佐藤説以前に戻る言説とみることもできる。以上のように、池氏の「関東管領・古河公方秩序」は佐藤氏の「公方―管領体制」とは異なる点が多い。
もちろん、「公方―管領体制」という概念にも、実際に両者がどのような関係にあったのかが未検討であるなどの問題点もある(吉田2024)。また、一般書であることから研究史を長々と書くべきではないという制限もあるだろう。しかし、戦国期関東の政治体制という大きな論点について、これまでほとんど言及されてこなかった見方を一般書で示すというのは、やはり問題があるように思われる。
最後に、本書では上杉謙信を、河越合戦で「関東管領・古河公方秩序」が崩壊したにもかかわらず、この秩序に縛られて戦争を続けたとして、「周回遅れのトップランナー」と評価している。また、上杉謙信の戦争は「点と線」(都市と街道)の確保をめざした戦争であり、「普通の戦国大名」による「国郡境目相論」の戦争と異なる点にも注目している。そして、越相同盟によって上杉謙信は「普通の戦国大名」になったとする(この点は佐藤氏による「公方―管領体制」の終期と同様の見方か)。
しかし、前述のとおり北条氏も関東管領を名乗っていたのであるから、上杉謙信だけを「周回遅れ」と評価するのは妥当ではない。また、上杉謙信の戦争は永禄3年の関東出兵こそ、山内上杉氏の領国回復などをめざしたものといえるが、それ以降の関東出兵は、基本的に国衆間の戦争によって上杉方国衆を支援するための「国郡境目相論」に位置づけられる戦争である。逆に、越相同盟以降の謙信も、たとえば第三次関宿合戦の際に羽生城という「点」の攻略に拘って上杉方の劣勢を招いてしまうなど、「点と線」の戦いを続けているのである。
以上のことから、「点と線」の戦争と「国郡境目相論」の戦争はけっして矛盾するものではなく、両立する要素と考えられる(日中戦争が華北分離工作の延長上に勃発しながら、「点と線」の戦いになっているのを考えれば、当たり前のことである)。私見では、上杉謙信の戦争が「点と線」になってしまう原因は、謙信が前時代の体制に拘っていたからではなく、兵力の少なさに比して、同時に対処するべき敵を抱えたことによって兵力が分断され、「面」の支配ができなかったことが原因と考える。
本書の指摘に加えて、以上のような点をふまえて、関東における上杉謙信の影響を評価する必要があると思われる。
【参考文献】
家永遵嗣『室町幕府将軍権力の研究〈東京大学日本史学研究叢書1〉』(東京大学大学院人文科学研究科国史学研究室、1995年)
今福匡『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(星海社、2018年)
今福匡『図説 上杉謙信 クロニクルでたどる〝越後の龍〟』(戎光祥出版、2022年)
黒田基樹「謙信の妻」(同・前嶋敏編著『上杉謙信とその一族〈戦国大名の新研究4〉』戎光祥出版、2024年)
駒見敬祐「長享の乱と足利政氏」(黒田基樹編著『足利成氏・政氏〈古河公方の新研究1〉』戎光祥出版、2022年)
佐藤博信「戦国期東国における東国国家論の一視点―古河公方足利氏と後北条氏を中心として―」(同著『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年、初出1979年)
百瀬今朝雄「足利成氏の幼名」(『日本歴史』414号、1982年)
山田邦明『上杉謙信〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2020年)
吉田勝弥「戦国期東国における扇谷上杉氏の位置づけの再検討―上杉憲勝書状を手がかりに―」(戦国史研究会第525回レジュメ、2024年7月13日)








