KADOKAWA/2024年12月刊/新書版/404ページ/1210円/ISBN:9784040824949

本書の概要

天正12年(1584)3月6日、織田信雄は羽柴秀吉との取次を務めていた三家老を切腹させ、秀吉との対決に踏み切った。小牧・長久手合戦(以下、小牧合戦。合戦の名称については後述)の勃発である。これ以降、11月12日に和睦するまで、約8ヵ月にわたって両者は戦い続けることになる。

本書は、小牧合戦を中心として、本能寺の変で天下人・織田信長が死去してから織田氏の後継者をめぐる争いや重臣の権力闘争を経て、豊臣政権が成立して徳川家康が従属するまでの流れをまとめた大作である。このように、豊臣政権の成立を考えるうえで小牧合戦は非常に重要な戦いであり、論文集は2冊刊行されている(藤田編2006a・b)。しかし、一般書はこれまでまったくなく、誤解されている点も多かった。

これにはさまざまな理由があるが、1つあげるとするならば、本能寺の変とその直後に発生した山崎の戦いの過大評価であろう。そもそも、本能寺の変は中世日本でしばしば発生したクーデタの1つにすぎない。しかし、織田信長の過大評価にともなって、本能寺の変は特別視されることが多く、本能寺の変によって織田政権が崩壊したという認識が強かったのである。

また、山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉が最終的に天下一統を成し遂げることから、秀吉の「天下取り」が山崎の戦いから始まっており、小牧合戦もその一環だという認識があった。これにより、その前後の戦争に比べて小牧合戦が等閑視される状況にあったのである。

しかし、政権の移行という点では本能寺の変・山崎の戦いよりもむしろ小牧合戦のほうが重視されるべき合戦である。そういった点で、小牧合戦の流れを一般書としてまとめた本書は、とても意義のあるものといえるだろう。

目次は以下のとおりである。なお、前述のとおり本書の意義は小牧合戦の流れを詳細に明らかにしたものであり、各章の概要を述べたところでそれは小牧合戦の概要を述べるものにすぎなくなってしまい、その魅力はほとんど伝わらないだろう。また、筆者は以前、小牧合戦の概要をまとめたことがあるため、気になる方はそちらを参照していただきたい。

はじめに
序章  本能寺の変と織田政権の動揺
第一章 「織田体制」の成立と再編
第二章 小牧・長久手合戦始まる
第三章 濃尾平野の地形と両軍の布陣
第四章 小牧・長久手合戦と周辺諸国
第五章 長久手合戦と戦局の転換
第六章 小牧・長久手合戦の終結と「織田体制」の崩壊
終章  小牧・長久手合戦の歴史的意義
おわりに

本書の特徴

本書の最大の特徴は、第三章にあるといっても過言ではない。通常、政治史の叙述は一次史料、とくに文書(書状類)と記録(日記類)を中心とした文献の内容を中心にして行われる。本書でも基本的には文献の内容が中心となっている。もちろん、さまざまな文献を収集して、詳細に歴史的な事実を解明しているというだけで、本書が重要な意義を持つことは言うまでもないことである。

しかし、第三章では現地調査を通じて、小牧山城周辺の地形を復元し、地理的な側面から小牧合戦の特徴や武将たちの思惑に踏み込もうとしている。歴史研究において、文献史料しか扱わない(扱えない)研究者を揶揄する言葉として「文献屋」というものがある(政治家を「政治屋」と呼ぶのと同様の呼称である)。

当然、歴史資料は限定的なのだから、より多くの情報を複合的に分析して解明したほうが、より正確に過去を認識できるのは事実である。一方で、実際には文献史料の読解だけで高度な技術が求められるうえに、いまだしっかりと検討されていない資料も多く時間も要するため、ほかの情報の分析にも手を出すことはなかなか難しいのが現実である。

けれども、本書では基本的に文献史料を中心に叙述しながら、第三章では地理的な分析を行うという2つの視点を用いて小牧合戦の実像に迫ろうとしている。私も「文献屋」に甘えてはいけないと、あらためて強く感じたものである。

小牧合戦に関する主要な論点

また、私が本書を通読して重要だと考えた点が主に3つある。これらは研究上ではすでに広く知られており、大河ドラマ「どうする家康」などでも一部反映されていて近年はより一般化している内容ではあるが、本稿であらためて確認していきたい。

1つ目は、小牧合戦は「秀吉VS家康」の戦いではなく、「秀吉VS信雄」の戦いだということである。本書の副題では「秀吉と家康、天下分け目の真相」とあって、小牧合戦が「秀吉VS家康」であったかのような書かれ方をしているが、本文ではその解釈が誤りであり、実際には秀吉と信雄の戦いであったことが強調されている。

上記の解釈に対して、「たしかに秀吉と信雄の戦いであることは事実だが、秀吉と家康が戦っているのもまた事実である」として、「秀吉VS信雄・家康」とする意見も一般の解釈のなかではしばしば見受けられる。しかし、これは詭弁にすぎない。

こうした解釈の根拠として用いられるのは、徳川家は織田家の被官ではなく、個別の領域権力であったということである。別の権力体なのだから、その当主である信雄と家康は併記するべき、という考えであろう。

しかし、たとえば戦国大名に従属している国衆も、戦国大名とは別個の領域権力であった。これをもとに、戦国大名同士が戦っている戦争を、戦国大名の当主と国衆の当主を併記することは基本的にない。たとえば、今川家に従属していた松平家は三河の国衆であったが、桶狭間の戦いを「織田信長VS今川義元・松平元康」とは(間違ってはいないけれども)普通は表記しない。このような状況で、小牧合戦だけ家康を併記する、というのはミスリードする原因になるため、避けるべきである。

また、秀吉方についた池田勝入・森長可らは秀吉とは別個の領域権力であった。さらに、織田家と徳川家の関係は、地域権力の徳川家が天下人の織田家に従属している関係性であるのに対し、当時の池田家・森家は織田家の家臣という点では羽柴家と同格であり、羽柴家に従属していたわけではなくあくまでも対等な同盟関係とみなされる。

仮に、信雄に従属している家康を表記するのであれば、秀吉と対等な同盟関係にある池田勝入・森長可も表記するべきであり、家康のみ表記するのはアンフェアである。したがって、「秀吉VS信雄・家康」とみる見方には賛同しえない。あくまでも小牧合戦の本戦、主要な対立軸は天下人の座をめぐる秀吉と信雄の対立とみなすべきである。

2つ目は、伊勢・尾張・三河のみで展開されたのではなく、関東から四国にかけて大規模に展開されたことである。

つまり、秀吉に味方した織田大名・戦国大名には池田家・森家・前田家・上杉家・佐竹家・毛利家などがおり、信雄に味方した織田大名・戦国大名には、徳川家・佐々家・北条家・長宗我部家などがいた。ただし、彼らを秀吉や信雄と併記するべきではない。というのは、彼らは地域権力にすぎないのに対し、秀吉と信雄は天下人(あるいは天下人候補)であり、政治的な地位が根本的に異なるからである。

しかし、これまで地域社会のなかで認識されていた戦争を、全国規模の視点に位置づけるという試みは非常に重要なものといえるであろう。このような認識は近年、永正期以前と永禄期以降の戦争について徐々に指摘されつつある。ただし、大永期から弘治期にかけての戦争については、いまだ検討の余地がある。この点については今後の検討課題としていきたい。

3つ目は、長久手合戦は局地戦にすぎず、小牧合戦全体では秀吉が勝利したことである。1つ目のところで記した副題の件と同様に、本書の題名は「小牧」「長久手」の地名を併記して合戦を呼称しているが、本文では局地戦にすぎないことが明記されている。

天正12年6月5日付け佐竹義重宛て佐久間信栄書状に「秀吉が徳川家・北条家も討伐対象にしている」と記されていることを根拠として、たとえ局地戦であろうとも、徳川家の本国である三河に手を出せなかった秀吉の限界に注目する見方である。ただし、これについては秀吉の本心なのか、それとも自軍の兵の鼓舞や多数派工作のための名目にすぎないのかを判断する必要がある。

この点、仮に本心なのだとしたら、秀吉は南信濃・三河方面を優先して(あるいは他方面と同等に)軍事行動を展開するはずである。しかし、実際には秀吉は北伊勢の織田信兼らを調略し、堀尾吉晴に北伊勢への出陣を伝えるなど、明らかに信雄の本拠地・伊勢長島城(三重県桑名市)の周辺を優先して軍事行動を展開している。

秀吉が尾張方面を重視するのは、徳川家康が信雄に味方して小牧山城(愛知県小牧市)に籠もり、美濃方面をうかがう様子を見せたことによる対応であって、当初の目的ではまったくないと判断される。つまり、秀吉は長久手合戦に負けたことで、信雄に攻撃対象の焦点を当てる方針に転換したのではなく、最初から最後まで信雄をメインの攻撃対象に据えていたのである。

そもそも、当該書状の発給者である佐久間信栄は信雄の家臣であり、秀吉の意思を直接確認したわけではないだろう。そうではなく、6月5日段階では徳川家が信雄に味方して小牧山城に籠もっているから、信雄方としては徳川家と同盟している北条家も秀吉にとって討伐対象に入っている“だろう”と、信栄が秀吉の意図を予想しているにすぎないものとみなされる。こうした視点に基づき、本稿では一貫して「小牧合戦」の用語を用いた。

なお、題名の表記と本文の内容のずれについては、とくに批判するつもりはない。著者が権利を有しているのはあくまでも本文の内容のみであり、題名や見出しなどについては(販促などの事情により)とくに一般書については出版社側が決定することが多い。本書以外にも、たとえば福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房、2007年)では、本文では「淀殿」を使用するべきではなく「浅井茶々」を使用するべきだとしているし、柴裕之『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、2020年)でも、本文では一貫して「羽柴秀吉」と呼称されている。

これらの点を訂正していくためには、本稿で出版社を批判するよりも、より世間に最新研究の成果を広めていくことが重要だと思われる。

【参考文献】
藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論 上』(岩田書院、2006年)
藤田達生編『近世成立期の大規模戦争 戦場論 下』(岩田書院、2006年)