はじめに
戦国大名家同士の軍事同盟としてもっとも有名なものは、織田信長と徳川家康の清州同盟であろう。しかし、戦国期のもっとも代表的な同盟は、「駿甲相三国同盟」である。「駿甲相三国同盟」とは、駿河今川家・甲斐武田家・相模北条家の三つの戦国大名家に結ばれた攻守軍事同盟であり、一般的には「甲相駿三国同盟」の名で親しまれてきた。この呼称は、かつては三大名家のなかで武田家の研究が進展していたために使用されたものである。
ただし、当時の朝廷や室町幕府は三大名家の序列を今川家・武田家・北条家の順で明確に認識しており、その序列が崩れることはなかった。そのため本書の著者・黒田基樹氏は、三大名家の政治的序列に基づいて、「駿甲相三国同盟」と称するのが適当としている。
本書は駿甲相三国同盟の形成から解体までの動向を、はじめて通史的に明らかにしたものである。とくに、武田家と北条家による信濃・上野での上杉謙信(当初は長尾景虎。以下、上杉謙信に統一)に対する共同での軍事行動や、足利義昭・織田信長の台頭が三国同盟に与えた影響などについては、先行研究で十分には取り上げられていなかった。
駿甲相三国同盟の概要
本書の章立ては以下の通りである。
はじめに
第一章 今川・武田同盟の成立
第二章 河東一乱の決着と三大名家の和睦
第三章 三大名家の同盟が誕生
第四章 始動した三国同盟
第五章 足利義輝の甲越和睦命令
第六章 三大名家共闘の実現
第七章 三大名家相互の軍事協力
第八章 三大名家による二度目の共闘
第九章 北条家と信玄が関東で優位を確立
第十章 今川家・武田家の関係の変化
第十一章 駿甲相三国同盟の崩壊
まずは本書を踏まえ、簡単に「駿甲相三国同盟」の概要を確認したい。
天文10年(1541)、武田家では武田信玄(当時は晴信。以下、信玄に統一)が、北条家では北条氏綱から北条氏康が家督を継承し、敵対していた両者の和睦の素地ができあがった。天文13年には、信玄と氏康の間で和睦が成立したらしい。天文14年5月、信玄は信濃国伊那郡に侵攻するが、その際、今川家と北条家は援軍を派遣している。同年7月には、氏康が義元からのたび重なる和睦交渉を拒否したため、面目を潰された義元が河東地域(駿河国東部)に侵攻した。
同年9月になると、信玄が義元への援軍として河東地域に出陣し、義元と連携した山内上杉憲政(のりまさ)が北条方の武蔵の拠点であった河越城(埼玉県川越市)を包囲する。強大な軍事力を有した勢力との二方面作戦を強いられた氏康は、義元との和睦仲介を信玄に依頼し、11月に河東地域から全面撤退するかたちで義元と和睦した。
天文19年、義元の正妻で信玄の姉の定恵院殿が急死したことにより、今川家と武田家の婚姻関係は断絶し、新たに婚約を進める必要性が生まれた。翌天文20年には、今川・武田・北条の三大名家の相互で、嫡男と嫡出長女の婚約が取り決められたとされ、黒田氏はこの年に「駿甲相三国同盟」が成立したとみられている。実際に婚儀が行われた年については、武田義信(信玄嫡男)と嶺寒院殿(義元嫡女)が天文21年、今川氏真(義元嫡男)と早川殿(氏康嫡女)が天文23年7月、北条氏政(氏康嫡男)と黄梅院殿(信玄嫡女)が天文23年12月にそれぞれ行われた。
その後、今川家は三河に加えて尾張東部までを、武田家は信濃について北部だけを残すまでを、北条家は武蔵北部に加えて上野と下総・上総の大部分を領国化した。これは、三大名家それぞれが列島でも有数の戦国大名へと成長したことを意味した。ところが永禄3年(1560)、上杉謙信が山内上杉憲政を擁して、関東に侵攻してきた。謙信の進軍を受け、北条方の勢力の多くが上杉方に味方したため、氏康は小田原城(神奈川県小田原市)に籠城せざるをえなくなった。永禄4年には謙信が小田原城を包囲したが、武田信玄と今川氏真自身による援軍が到着したことで、謙信は小田原城攻撃を諦めて退陣した。これは、三大名家の当主が初めて共同で軍事行動を行った事例である。これ以降、武田家と北条家は関東を中心に共同で軍事行動を行うようになる。
永禄6年、三大名家による共同での軍事行動が再び行われた。氏真が7月に北関東に向けて出陣し、8月には信玄が西上野に進軍した。しかし、このときの進軍は利根川の増水により渡河することができず、永禄4年時のような具体的成果をあげることができなかった。10月中旬にそれぞれ退陣したようだ。
永禄9年3月、上杉謙信が下総国臼井城(うすいじょう。千葉県佐倉市)攻略に大失敗したことを皮切りに、関東の上杉方勢力がこぞって北条方に従属するようになった。ここに北条家と武田家は上杉方に対して、軍事的に優位な状況となる。
しかし前年の永禄8年、将軍候補として足利義昭(当時は一乗院覚慶)が登場したことが、三国同盟に大きな影響を与える。義昭は謙信と織田信長を自身の上洛への支援を要請し、謙信と北条家、武田家との和睦を命令した。同年武田家では信玄の嫡男義信による謀反(義信事件)が起き、永禄10年に義信が死去した。それを受けて、今川氏真が信玄に対して嶺寒院殿(義信正妻)の帰国を要請し、今川家と武田家の婚姻関係が断絶したことで、両家の政治関係が不安定になった。その状況をみた謙信は、武田家への不信感を拭えない氏真に、信玄を挟撃することを前提にした交渉を働きかける。永禄11年11月頃には氏真と謙信の間で、同盟のための条件について合意が進められており、攻守軍事同盟成立の直前までこぎ着けていた。
一方、信玄は永禄8年に信玄四男の諏訪勝頼が織田信長の養女・竜勝寺殿(りゅうしょうじでん。美濃苗木領遠山直廉の娘、信長姪)と婚姻を結び、織田家と停戦和睦を結んでいる。さらに信玄は、永禄11年の足利義昭の上洛にあわせて、11月に信長嫡男の寄妙丸(のち信重、信忠)と信玄五女松姫の間での嫡流筋の結婚を図り、信長との同盟を強化した。そもそも、攻守軍事同盟において敵方勢力と勝手に同盟・和睦を結ぶことを互いに禁止する契約が結ばれており、信玄・氏真の行動は同盟契約に違反するものであった。
結果的には、信玄が永禄11年12月に駿河への侵攻を開始した。信玄は北条氏康・氏政に駿河侵攻の理由を説明し、味方になるよう要請したが、氏康嫡女である早川殿(氏真の正妻)を保護しなかったため、氏康は激怒し、武田家と北条家は抗争を展開していく。こうして足かけ18年に及んだ「駿甲相三国同盟」が崩壊した。
本書の内容
まず注目したいのは、同時代において今川家・武田家・北条家の三大名家が、一体の政治勢力として周囲に見なされていたことである。天文21年(1552)4月27日、後奈良天皇からの東大寺大仏殿などの修理の綸旨が今川家・武田家・北条家のそれぞれに出されている。戦国時代全体を通して見ても、三国間で結ばれた攻守軍事同盟は、この「駿甲相三国同盟」しかない。この異質な三国同盟は、三大名家それぞれが一体の勢力と自称していただけではなく、周囲の勢力からもそのように認識されていたことがうかがえる事例だろう。
興味深いのは、上杉謙信と北条氏康が互いにそれぞれの調伏(呪詛)を寺院に依頼していたことである。信玄と氏康による共同の軍事行動によって、関東の支配が次第に困難になっていた謙信は、永禄6年(1563)7月18日、越後飯塚極楽寺と薬師寺に「武田晴信(信玄)・北条氏康」の調伏を依頼している。一方で武田家と北条家も、比叡山延暦寺に謙信の調伏を依頼していた。このことを知った上杉家は比叡山側に問い質すと、比叡山側は8月18日の書状で、「武田晴信・伊勢新九郎(北条氏政)」からの依頼で謙信を調伏したという申し出はなかったと返答している。
注目されるのは、謙信が7月の時点では、北条家について北条苗字で呼んでいたのが、8月には旧苗字の伊勢苗字で呼んでいる。北条苗字は、当時において関東管領(関東武家勢力の№2)に対応する苗字となっており、謙信は北条家の関東管領としての立場を承認しないという姿勢から、旧苗字で呼んだとされる。謙信は永禄4年に小田原攻めを行った際に、山内上杉憲政から上杉苗字と関東管領を受け継いでおり(関東管領が北条家と上杉家で両立するかたちに)、同年9月に「輝虎」と名乗っている。対する北条家も、謙信のことを上杉苗字では呼ばずに「長尾輝虎」と旧苗字の長尾で呼んでいる。そのことが史料から確認できるのは永禄9年からだが、黒田基樹氏は謙信を苗字で呼んでいる事例がないことから、謙信が上杉苗字に改称したときからそのように呼んでいたのではないかと指摘している。
黒田氏の推測が正しければ、北条家は謙信の関東管領を承認していないことを当初から示していたのに対し、謙信は永禄6年になってから北条家の関東管領を承認していないことを示したことになる。推測を重ねると、謙信は関東管領そのものには興味がなく、関東に影響力を及ぼせる立場として適当な関東管領の地位を利用しただけと思われる。もし関東管領そのものに興味があるのなら、当初から伊勢苗字で呼ぶのが妥当であり、永禄6年の中頃になって急に伊勢苗字で呼ぶことを十分に説明できない。謙信の関東管領そのものへの関心の欠如は、「駿甲相三国同盟」崩壊後に謙信が北条氏政と結んだ越相同盟の交渉時、永禄3年に謙信が関東に進軍した際に、謙信が古河公方として擁立した足利藤氏の死を認識していなかったことからもうかがえる。想像を逞しくすれば、今回の事例は自身の調伏が行われていることに不満を持った謙信が、北条家を伊勢苗字で呼ぶことで不満を示したと考えることもできる。
おわりに
おそらく、本稿を一読した読者は「駿甲相三国同盟」とは複雑な政治情勢が絡まり合った同盟であったと感じたのではないだろうか。「駿甲相三国同盟」は、今川家・武田家・北条家だけではなく、上杉家や小田家そして足利将軍家などの動向がさまざまに入り組んでおり、その動向を詳細に把握するのは容易ではない。本書では同盟関係を理解する際に、当事者のみの動向を追うのではなく、周辺地域の動向を踏まえ、全体的な視点から把握する必要があることを指摘していた。
また、本書はあくまでも現時点での研究をもとに、三国同盟の全体像を掴もうとしたものであり、一般書という性格から個々の事実関係について詳細に検討しているわけではない。とくに、年代比定に関しては周囲の政治動向がより詳細になることで、改められる箇所もあると思われる。しかし、三国同盟の全貌について初めて明らかにした功績は大きいと断言できる。「駿甲相三国同盟」について知りたい方はもちろん、戦国時代の関東情勢や戦国大名の同盟について知りたい方にもぜひ手に取ってもらいたい書籍である。本書を通じて、さらに研究が発展することを期待したい。
【参考文献】
黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(KADOKAWA、2017年)
黒田基樹『北条氏政 乾坤を截破し太虚に帰す』(ミネルヴァ書房、2018年)
黒田基樹『駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防』(KADOKAWA、2024年)
丸島和洋『戦国大名の外交』(講談社、2025年)








