第3回では、ヴァールブルクの日記や助手たちの証言をもとに、ヴァールブルクがラテラノ条約とムッソリーニをどうみていたか明らかにしていく。
ラテラノ条約調印式
ヴァールブルクは、1929年1月19日にローマのヘルツィアーナ図書館で「ギルランダイオ[1] https://kotobank.jp/word/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%AA-53877の工房におけるローマ的古代」(ドメニコ・ギルランダイオ。メディチ家の保護を受けフィレンツェで最大の美術工房を主宰していた)について講演し、2月11日のラテラノ条約調印時にもローマに滞在していた。歴史家アルナルド・モミリアーノ[2] https://dbcs.rutgers.edu/all-scholars/momigliano-arnaldo-danteは助手ビングらの証言から以下の出来事を記録している。
ローマの路上は組織されたものであるかどうかは別として、熱狂した群衆であふれかえっていた。そんな最中、ヴァールブルクはビングをはじめとする同行者たちの前から姿を消してしまった。心配になった彼らはホテルで待ったが、夕食時になっても戻ってくる気配がなかったため、警察に電話をかけてヴァールブルクの行方を探そうとした。彼がようやく雨に濡れ疲れた姿で、しかし満足げな様子で現れたのは、すでに深夜近くになってからであった。ヴァールブルクはこの件で咎められると冷静に、こんなふうに答えたというのである。
「私が一生の間、異教と異教風の祝祭の復活に関心を持ち続けてきたことを君たちは知っているはずだ。今日、私はまさにローマがふたたび異教化される現場に居合わせるという絶好の機会を得たのに、君たちは私がそこに残ってその様子を見ていたことで不平を口にしている」(Momigliano 1987, p.92)。
ただし、ヴァールブルクと助手たちの「日誌」に基づいて推測すると、これに類する出来事が実際に起こったのは翌日の2月12日である。教皇ピウス11世はこの日にサン・ピエトロ大聖堂でミサを行っており、その場にはビングたちもいた。ビングはそのときの印象を「日誌」に記しており、彼女は教皇から衛兵たちに至るまでの装いや聖堂の建築空間をはじめとするミサの豪華絢爛さとその規模に圧倒され、「勝ち誇った異教の残存」をそこに見出している。
ヴァールブルクはビングたちには同行しなかった。ヴァールブルク自身による「日誌」への書き込みでは、
曇天だったが空はもちこたえそうに思えたので、この日にサン・ピエトロ広場を象徴の歴史家、心理学者として経験せずにすませることは、あまりに愚かに思われた。
と書いている(TB、S.408)。そこで彼は広場に向かい、群衆でぎっしりと埋め尽くされたなかで、教皇ピウス11世が姿を見せ、祝福を与える様子を目にしたのである。
数日後の2月18日の『日誌』に、ヴァールブルクは
映画館で条約を共体験する(TB、S.410)
と書いているから、ラテラノ条約調印に関するニュース映画を見たのであろう(2月19日付の妻宛の手紙では、ぜひその映画を見るように勧めている)。ヴァールブルクが見た映画は、ファシスト政府のプロパガンダ機関だった教育映画連盟(L'Unione Cinematografica Educativa=LUCE)製作の《イタリアとヴァチカンの条約》[3] https://www.archivioluce.com/la-conciliazione-fra-litalia-e-il-vaticano/である。映画は、ガスパッリ枢機卿とムッソリーニがいずれも庶民の出であることを取り上げている。また、いろいろな使節を迎えたり、新しい自動車に乗りこんだりする教皇の姿が映し出されていた。ムッソリーニがこの条約調印の日に公の場にはまったく姿を見せず、パラッツォ・キージ(首相官邸)のバルコニーに教皇庁と政府の二つの旗を並べて立てただけであったことを、ヴァールブルクは「最も巧みな点」と評している。彼はまた、ムッソリーニの唇の動きに驚かされ、「邪悪で美しいカエサル的な口」と呼んでいる。一方のガスパッリ枢機卿は、見られていることにはまったく無頓着に座っており、「記念碑的で年老いた村長」のようだと語っている。
「勝ち誇った異教の残存」
ラテラノ条約はヴァチカン市国という限定された領域内においてのみ教会の世俗的権利を認めるものであり、これによって教皇はそれ以外のローマおよび各地の教皇領に対する現世的な支配権を放棄した。カトリックがイタリアの国教と位置づけられたことで、教皇の権威は精神的な領域のみに限定されたのである。美術史家エルンスト・ゴンブリッチ(第1回参照)は
「ファシストたちが誇示するむきだしの権力の象徴」と「単に象徴的なだけの領域への教皇の撤退」との対比は、ヴァールブルクにとっての「啓蒙へと向かう人類の道の長い鎖におけるもうひとつの輪」
になったのだと述べている(Gombrich 1970, p.279)。
これはどういうことか。つまり、古代ローマ帝国滅亡後、ローマ皇帝以上の世俗権力を手にした教皇権は再び、ファシスト政権(=「復活した古代帝国」)に取り込まれたということだ。歴史は循環し、カトリック教会が1000年以上かけて抑圧した古代ローマ・ギリシアの宗教的熱狂が1929年のローマを席巻したのだ。
前述したモミリアーノもまた、この時期に古代ローマの皇帝崇拝に関する研究が多く生まれた背景には、ムッソリーニをめぐる皇帝崇拝の復活に似た雰囲気があったと指摘している。
次回はヴァールブルクが目撃した「異教の復活」が、ムッソリーニ政権におけるイメージ戦略において美術的にも復活していることを明らかにしていく。
【参考資料】
アビ・ヴァールブルク、伊藤博明・加藤哲弘・田中純訳、『ムネモシュネ・アトラス』、ありな書房、2012 年。
エルンスト・ゴンブリッチ、鈴木杜幾子訳、『アビ・ヴァールブルク伝:ある知的生涯』、晶文社、1986 年。
エルヴィン・パノフスキー、浅野徹・阿天坊耀・塚田孝雄・永澤峻・福部信敏訳、『イコノロジー研究』、美術出版社、1971 年。
エルヴィン・パノフスキー、中森義宗・内藤秀雄・清水忠訳、『視覚芸術の意味』、岩崎美術社、1971 年。
アーネスト・ゲルナー、加藤節訳、『民族とナショナリズム』、岩波書店、2000 年。
田中純、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、青土社、2001 年。
木村裕主、『ムッソリーニ―ファシズム序説』、清水書院、1996 年。
松本佐保、『バチカン近現代史』、中央公論新社、2013 年。
Heil, A., Brehm, M., Ohrt, R. (Hg.): Aby Warburg: Billedatlas Mnemosyne:the original, Berlin 2020.






