第2回では、ヴァールブルクとムッソリーニについて解説する前に、2人の邂逅の場である1929年のラテラノ条約について解説していく。
ラテラノ条約はローマカトリック教会=教皇庁とイタリア王国=ムッソリーニ政権の二者間で結ばれた条約である。条約締結の歴史的経緯をみていく。
教皇庁
古代ローマ帝国が滅亡した後、イタリア半島は大小さまざまな王国や都市国家が乱立し不統一であった。そうした状況のなか、教皇庁は中世以来イタリア中部に広大な領土を保有していた。これが教皇領である。教皇を頂点とする封建的な王国といっても過言ではないが、19世紀後半にその領土の大半を失った。
19世紀初め、教皇領はナポレオン率いるフランスに占領され、教皇ピウス6世もパリに監禁されるなど教皇庁の威信は大きく傷ついた。ウィーン会議で教皇領は回復したが、フランス革命の余波でイタリアでは自由主義・イタリア統一運動が勃興し、保守的な教皇庁と対立した。こうした運動を弾圧するために、常備軍や国民軍を持たない教皇庁はカトリック国であるオーストリアやフランスなどの外国軍を介入させたため、愛国的勢力を余計に刺激することとなった。
19世紀中頃、ピウス9世の治世に教皇領の崩壊が決定的となった。当初、彼は自由主義的改革を行い国民から支持を得ていたが、1848年革命によって反動的な憲法を発布する。これに対して国民の失望と憤激が高まると、革命勢力が蜂起し、ピウス9世は亡命、ローマ共和国が成立し教皇領はローマ共和国の支配下となった。のちにフランス軍がローマ共和国を壊滅させ、ピウス9世は帰還したが、教皇領はフランスの影響下に置かれた。その後、サルデーニャ王国がイタリア統一を進め、1861年にイタリア王国が成立した。1870年、ローマはイタリア王国軍に征服され、教皇は世俗的権力を失った。
これ以降、教皇庁とイタリア王国は対立し、教皇は自らを「ヴァチカンの囚人」と称しローマで孤立した。イタリア王国側も非カトリック化を推進し、両者の関係は断絶したまま「ローマ問題」と呼ばれる状態が続いた。
しかし、第一次世界大戦後のソヴィエト連邦成立とイタリアの経済不安が教皇庁とイタリア政府の利害を一致させ、ファシズムとムッソリーニの登場により両者の和解は一気に進んだ。
ムッソリーニの台頭
ベニート・ムッソリーニは1922年にローマ進軍で政権を奪取し、独裁権力を行使した。彼はファシズムを提唱し、イタリアを第二次世界大戦に導いた。
1883年に北イタリアの農村で生まれたムッソリーニは、教育熱心な両親に育てられた。父親の影響でガリバルディ(イタリア統一戦争の英雄)を信望し、小学校卒業後はサレジオ修道会の寄宿学校に入学するが、教会嫌いのため退学し、別の寄宿学校に転校した。1901年に師範学校を卒業し教員資格を得た後、社会主義運動に関わり、スキャンダルでスイスに渡り本格的に社会主義運動に参加した。
イタリア社会党の機関誌編集長を務めていたムッソリーニは、第一次世界大戦中に参戦論を唱えて除名された。その後、新聞を刊行し、1919年に「戦闘ファッシ」を結成した。最初の選挙では惨敗したが、反社会主義・反議会主義を掲げブルジョワ保守層の支持を得た。1921年に「全国ファシスト党」を結成し、最高指導者となった。
1922年、ファシスト党員がローマ進軍を決行し、ムッソリーニは政権を奪取した。最年少の首相となったムッソリーニは、選挙法を改正して独裁体制を強め、1926年までにすべての野党を廃止しファシスト党一党独裁制を確立した。
ムッソリーニは独裁体制をさらに盤石にするべくカトリック勢力の取り込みを試みるようになった。カトリック教会側も、宗教弾圧をすすめるソヴィエト連邦の台頭を脅威と捉え、対抗勢力としてファシズムに期待していた頃であった。ムッソリーニは教会との関係を改善することにより、旧支配層との協調関係を強化し、国内外での威信を高めるため、1926年に教皇庁との交渉を始めた。
ラテラノ条約
1929年2月11日、イタリア王国と教皇庁の間で条約が調印された。この条約は、ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂に隣接したラテラノ宮殿で調印されたことから「ラテラノ条約」と呼ばれる。イタリア王国はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の全権代理であるムッソリーニ首相が、教皇庁は教皇ピウス11世の代理として国務長官のピエトロ・ガスパッリ枢機卿(のちの教皇ピウス12世)が条約の調印に臨んだ。
条約は二つの協定に分かれる。第一の協定で教皇はイタリア王国を承認し、イタリア王は教皇領廃止の補償金を支払いヴァチカン市の自治権を認めた。第二の協定でイタリア王国は反教権主義を取り下げ、教会での婚姻や宗教教育などを認め、カトリック系政治運動が再開された。
これにより、国家と教会の対立が終結し、権限関係が再定義された。ラテラノ条約は、ヴァチカン市国がイタリア政府から政治的に独立した区域となることを認め、カトリックがイタリアにおいて特別な地位を持つことを確認した。イタリア政府は教皇庁に対し、対外的に永世中立であり、国内の政党間の争いに介入しないことを求めた。さらに、教皇領の没収に対する補償として、イタリア政府は教皇庁に9億4000万ドルを支払い、バチカンに駅を建設し、イタリア国鉄と接続することも確認した。
こうした一連の条約により、カトリック教会は世俗的権力を完全に放棄してムッソリーニ政権と一体化したように思える。ヴァールブルクはこの現象に「古代の異教の復活」を垣間見たようだ。
次回はいよいよヴァールブルクがみたラテラノ条約について解説していく。
【参考資料】
アビ・ヴァールブルク、伊藤博明・加藤哲弘・田中純訳、『ムネモシュネ・アトラス』、ありな書房、2012 年。
エルンスト・ゴンブリッチ、鈴木杜幾子訳、『アビ・ヴァールブルク伝:ある知的生涯』、晶文社、1986 年。
エルヴィン・パノフスキー、浅野徹・阿天坊耀・塚田孝雄・永澤峻・福部信敏訳、『イコノロジー研究』、美術出版社、1971 年。
エルヴィン・パノフスキー、中森義宗・内藤秀雄・清水忠訳、『視覚芸術の意味』、岩崎美術社、1971 年。
アーネスト・ゲルナー、加藤節訳、『民族とナショナリズム』、岩波書店、2000 年。
田中純、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、青土社、2001 年。
木村裕主、『ムッソリーニ―ファシズム序説』、清水書院、1996 年。
松本佐保、『バチカン近現代史』、中央公論新社、2013 年。
Heil, A., Brehm, M., Ohrt, R. (Hg.): Aby Warburg: Billedatlas Mnemosyne:the original, Berlin 2020.






