アビ・ヴァールブルクという名前を聞いたことはあるだろうか?
アビ・ヴァールブルク(1866~1929)はドイツ系ユダヤ人の美術史家だ。
富裕なユダヤ系金融一族の出身でありながら、家業ではなく美術史に大きな関心を持ち、ボッティチェッリの《プリマヴェーラ》などルネサンス美術の研究で多大な功績をあげた。そしてイコノロジー(図像解釈学)と呼ばれる美術史学のジャンルを創始した人物ともいわれる。
ハンブルク大学で教鞭をとっていたヴァールブルクは、心臓病で1929年に63歳で急死するまでの5年間、「ムネモシュネ・アトラス」と呼ばれる興味深い研究を行っている。その研究は、全部で79枚の大型パネルにそれぞれ十数枚の写真が貼り付けられた展示資料と研究論文で構成されている。「ムネモシュネ(=記憶の女神)、アトラス(=地図帳)」と命名された研究の内容は、美術史の研究史上きわめて先駆的かつ重要で謎が深いものである。79枚のパネルには一見無関係とも思えるような図版が並べられている。例をあげると、パネル番号79番にはローマ教皇のミサの写真と、シーボルトの日本紀行から抜粋された侍の図版、ゴルファーの新聞記事に中世の聖体(イエスの肉体のこと。具体的にはミサで用いられるパンを示す)冒涜を題材にした木版画、ラファエロの《ボルセーナのミサ》(第3回で解説予定)などが同質のもののように並べられているのだ。連想ゲームのように配置された図版は、実際ヴァールブルクの日記や付属する研究論文を参考にみてみると、ほとんどがヴァールブルクの研究キーワードである「パトス・フォルメル(情念の乗り物としての身体)」「占星術」「異教信仰(古代ギリシア・ローマの神々を信仰すること)」を軸にそれぞれ完成されていることがわかる。ヴァールブルクはこのパネルと論文をまとめた研究成果を一冊の書籍にまとめる計画を持っていたようだが、残念ながら未完のまま亡くなってしまった。そのため「ムネモシュネ・アトラス」については多くの研究者が解釈、意義について研究を行っており、その過程が先述したイコノロジーの体系化に大きく貢献している。
ヴァールブルクの死後、彼の集めた膨大な資料や研究成果はナチスの迫害を逃れてロンドンに移転し、ロンドン大学ウォーバーク研究所として今も存続している。ヴァールブルクの教え子やウォーバーク研究所出身者にはE・カッシーラー、E・パノフスキー、E・ゴンブリッジ、F・イエイツといった美術史家がおり、彼らはまとめて「ヴァールブルク学派」と称されている。
ここまでヴァールブルクについて短くまとめたが、本コラムでは今後3回に渡って、「ムネモシュネ・アトラス」のパネル78番を中心に、ヴァールブルクが見たラテラノ条約について解説していきたい。ヴァールブルクが亡くなった年、1929年に締結されたラテラノ条約はイタリア王国(ムッソリーニ政権)がヴァチカン市国の主権を認めた重要な条約だ。締結の日、ローマに滞在していたヴァールブルクは条約を、そしてムッソリーニをどう見ていたのだろうか。
次回はラテラノ条約に至る時代背景を中心に解説していく。
【参考資料】
アビ・ヴァールブルク、伊藤博明・加藤哲弘・田中純訳、『ムネモシュネ・アトラス』、ありな書房、2012 年。
エルンスト・ゴンブリッチ、鈴木杜幾子訳、『アビ・ヴァールブルク伝:ある知的生涯』、晶文社、1986 年。
エルヴィン・パノフスキー、浅野徹・阿天坊耀・塚田孝雄・永澤峻・福部信敏訳、『イコノロジー研究』、美術出版社、1971 年。
エルヴィン・パノフスキー、中森義宗・内藤秀雄・清水忠訳、『視覚芸術の意味』、岩崎美術社、1971 年。
アーネスト・ゲルナー、加藤節訳、『民族とナショナリズム』、岩波書店、2000 年。
田中純、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、青土社、2001 年。
木村裕主、『ムッソリーニ―ファシズム序説』、清水書院、1996 年。
松本佐保、『バチカン近現代史』、中央公論新社、2013 年。






