5月17日、駒澤大学駒沢キャンパスで戦国史研究会第535回例会が開催された。報告者は北村太智氏で、論題は「慶長五年の乱における「豊臣公儀」の分裂」である。
まず、「慶長五年の乱」という用語は一般的に聞きなれない言葉であろう。これは、いわゆる関ヶ原の戦いを示す言葉である。関ヶ原の戦いという言葉は、慶長5年9月15日に美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)で発生した戦いのみを指す場合と、石田三成・大谷吉継らの蜂起から毛利輝元の降伏(あるいは上杉景勝の降伏)までに全国で発生した一連の合戦の総称を意味する場合がある。そのため、報告者は後者を前者と区別するために「慶長五年の乱」と呼称している。
なお、「乱」という単語には反乱の意味がある。(後述する公儀の問題に絡むが)どちらも自身の軍が公儀であるとして戦っている以上、「乱」という言葉は使用するべきではないのではないかという意見が出た。代案としては「慶長五年の戦い」や「慶長五年の合戦」などが示された。個人的には「乱」は反乱だけではなく戦乱・動乱の意味で使われることもある(治承・寿永の乱、応仁の乱)ため、現状では「慶長五年の乱」でも問題ないと考える。また今後、「乱」は反乱にしか用いないと学術用語を統一するのであれば、ここであげたほかの「乱」についても別の用語を考える必要があるだろう。
さて、本報告の本題は、慶長五年の乱において、東軍と西軍のどちらが公儀の軍か(あるいはどちらが反乱軍か)を考察するものである。近年では、白峰旬氏などの研究によって西軍には「二大老・四奉行」体制というべき構造があり、こちらが「豊臣公儀」であった(つまり東軍は反乱軍であった)という評価が中心となっている(白峰2016)。
今回の検討では、まず秀吉死後から家康は「秀頼の代行者」として豊臣政権を主導する立場にあったことを確認した。そのうえで、家康の実績を評価し、西軍を公儀と認めない大名らが東軍を形成したのであり、東軍(家康)は二大老・四奉行に依拠しない別の「豊臣公儀」であったと評価した。
ここで注意が必要なのは、東軍が公儀であったからといって、報告者はただちに西軍が反乱軍であったと評価しているわけではないことである。本報告の要旨は、東軍は家康を公儀とみなし、西軍は二大老・四奉行を公儀とみなしたという点にある。つまり、慶長五年の乱は公儀と公儀の戦いであったと評価しているのである。一部では慶長五年の乱を「羽柴秀頼・徳川家康(公儀軍)VS二大老・四奉行(反乱軍)」とみなす理解もあるが、本報告をその根拠とすることは報告者の意思から外れるので、厳に慎まなければならない。
個人的には、慶長五年の乱における公儀(正当性)の問題として今後検討していくべきこととして、以下の点があると考えている。
まず、これまでは慶長五年の乱に直接参加していた、当事者の認識を評価していたという点である。当事者にとって、自身が味方した軍を正当とみなすのは当然のことである。つまり、彼らは「家康/二大老・四奉行を公儀とみなしたから東軍/西軍に加わった」のではなく、「東軍/西軍に加わったから(本心かどうかさておき)家康/二大老・四奉行を公儀と表明している」のである。
そこで、大名が味方した側の軍の評価ではなく、敵側の評価(東軍にとっての二大老・四奉行、西軍にとっての家康)をみる必要があるだろう。
西軍にとっての家康の評価は、かの有名な「内府違いの条々」があげられるであろう。秀吉が死去した後のさまざまな家康の言動を非難する内容となっており、家康の言動を容認したり譲歩したりするようすは一切みられない。
一方、東軍にとっての二大老・四奉行の評価については本報告でも触れられている。たとえば、蜂須賀家政は「たしかに最近の家康は届けなく政務を取り仕切っていることがあるとは言っても」と、西軍の主張を認めたうえで「秀頼に対して「余相違之題目」は見受けられない」と家康の言動を擁護している。また、加藤清正は、「秀吉の「置目」が伝えられていないので、家康が何を遵守していて、何を反故しているのかわからない」と、どちらが正当か判断を保留している。
これらをみると、東軍は家康の正当性を主張しているのは事実だが、逆に西軍についてはその不当性はそこまで主張していないようにみえる。むしろ、西軍の主張もある程度は譲歩して容認したうえで、それでも家康を排除するほどではないと家康を擁護しているにすぎないようにも思える。一方、西軍は自身の正当性を主張するだけではなく、家康の不当性を明確に追及しているのである。
このような、内容の切れ味の差(語気の差とでもいうべきか)は気になるところであり、詳細な検討が必要である。たとえば、西軍は感情的・一方的であるのに対し、東軍は冷静でフェアな考えを持っていたからこのような表現の差が生まれたとみることもできる。一方、あるいは東軍大名は二大老・四奉行に共鳴できなかったわけではなくむしろ本心では共鳴していたが、さまざまな事情によって家康に味方せざるをえない状況に追い込まれた結果、建前上は西軍に共鳴“しない”(“できない”ではない)旨を記したのではないかと考えることもできるのではないだろうか。仮に東軍が二大老・四奉行に共鳴できていなかったのであれば、譲歩するような表現は用いずに「ほんらい秀頼の名代を任されているのは家康なのだから、不在の隙をついて大坂城を占拠した二大老・四奉行の行動は許されるものではない」くらいの追及はあってしかるべきではないだろうか。
また、慶長五年の乱に直接参加していない人物(公家や僧侶など)の評価も注目される。たとえば、『義演准后日記』(醍醐寺座主の義演が著した日記)では西軍を「秀頼様衆」と呼称している。これは、秀頼がいる大坂城(大阪府大阪市)を西軍が占拠していることから義演が西軍を公儀の軍とみなしたものと考えられる。この記述を、義演が慶長五年の乱に直接関わってないことから生じた誤解と捉えるか、あるいはどちらの陣営にも組していない公平な視点からみた客観的な評価と捉えるかによって、東軍と西軍の位置づけは大きく左右されるだろう。
最後に気になるのは、戦後、家康が羽柴氏を天下統治から外して徳川公儀を形成していったことについてである。これについては、豊臣政権の奉行衆の多くが西軍に味方して失脚してしまったため、徳川家のみで政権を運営する必要に迫られたと理解されている。しかし、それはあくまでも家康の言い分(統治者側の事情)にすぎない。東軍諸将が家康を豊臣公儀と認めたのはあくまでも秀頼の名代としてであり、徳川公儀の存在を認めていたわけではないのである。それにもかかわらず、家康が豊臣公儀を放棄して徳川公儀を形成したことについて、東軍諸将はどのように認識していたのだろうか。
全国を巻き込んだ日本史上最大の戦乱・慶長五年の乱の追究は、まだまだとどまるところをしらない。
【参考文献】
白峰旬「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(『史学論叢』46、2016 年)
