2025年8月2日、歴史学研究会日本中世史部会で卒論報告会が開催された。なお、報告会は2日と9日の2回に分かれて開催されたが、筆者は1日目にしか参加していないため、本記事では1日目にあった3つの報告を取り上げたい。
1.後鳥羽院北面・西面の基礎的研究
これは立教大学の浅田凜斗氏による報告である。
白河上皇は、院御所を警備するために北面の武士を組織した。また、後鳥羽上皇は警備を増強するために西面の武士を組織した。従来は、北面の武士と西面の武士はともに院御所を警備する集団として同類のものと認識されてきた。そのため、後鳥羽院政期には新たに組織された西面の武士の研究が進んでいるのに対し、北面の武士の研究は漠然と白河院政期からの連続とされ、後鳥羽院の北面の武士そのものはあまり研究されてこなかった。
本報告では、このようにこれまで研究の薄い後鳥羽院の北面の武士を中心に分析している。その結果、北面の武士にはたしかに治安維持活動など後白河院政期以前と同様の役割を果たしている点も見出せた。しかし、西面の武士とは異なり、軍事行動などによって鎌倉幕府から危険視されるような集団ではなかったことが明らかになった。一方、北面の武士は芸能活動の奉仕にも関わっており、浅田氏はここに後鳥羽院の特性を見出している。
質問時間には、後鳥羽院政の最大のターニングポイントといえる承久の乱に、北面の武士・西面の武士がどのように関わっていたのかなどの質問が出た。また、前述のように先行研究では北面の武士と西面の武士を漠然と院の軍事集団として認識していたため、両者があまり区別されていない状況にある。そのため、先行研究では西面の武士の分析結果をそのまま北面の武士にも適用させるというようなあり方がみられていた。本報告では、こうした先行研究を問題視していながら、自論を補強する際に引用した先行研究に上記のずれが残ったままのものも含まれていたことにも指摘があった。
これらの点は今後の課題となるが、これまで軍事面にのみ注目されてきた北面の武士が、実は芸能面でも活躍していたことを明らかにした本報告の成果は、とても大きなものといえるだろう。
2.持氏期~成氏期における関東足利氏権力の発給文書と軍事動員
これは明治大学の菊地世南氏による報告である。
近年、関東足利氏の研究が大幅に進展している。このなかで大きな論点となるのが、室町期の鎌倉公方から戦国期への古河公方への変化である。これは、単に拠点が鎌倉(神奈川県鎌倉市)から古河(茨城県古河市)に移ったというだけでなく、権力としての性格自体が荘園領主から領域権力へと変化している。
先行研究では、この変化を如実に示すものとして発給文書の様式が御教書(書止文言が「依仰執達如件」などになる形式)から書状(書止文言が「恐々謹言」などになる形式)に変化していることが指摘されている。御教書とは、公的な文書で文面が尊大であるのに対し、書状とは、私的な文書で相手に対して敬意を示している、という違いがある。つまり、鎌倉公方段階では、鎌倉府の首長という役職に基づく権限によって、関東の武家に対して命令権を行使していたが、古河公方段階になると1つの領域権力となり、関東の武家とも1:1の契約関係に変質するということである。本報告では、こうした鎌倉公方から古河公方への権力の変化が、軍事動員にどのような変化をもたらしたのかを検討している。
鎌倉公方段階では、公方の側近が鎌倉府軍の大将に登用され、関東の武家は大将の指揮下に編成されて鎌倉府軍を構成していた。これは、成氏が鎌倉公方に就任した当初も同じあり方であった。しかし、享徳の乱をきっかけとして、地域の有力武家を大将に任命し、周囲の中小武家を大将のもとに編成するというあり方に変わっていく。そして、古河公方となった成氏は各地で戦う大将と情報共有をして全体の指揮を取る総大将の位置づけに変化したのである。
菊地氏は、こうした変化の結果、古河公方権力は有力領主の軍事的な協力によって支えられる存在、つまり諸氏が寝返れば簡単に危機に瀕する権力になったと評価している。
本報告で注目されるのは、中小領主が鎌倉公方との繋がりより周囲の有力領主との繋がりを優先するようになる契機として、成氏による軍事編成の変化も影響を与えていたことであろう。この変化は一般的に国人領主から国衆への変化として認識されるものだが、従来は中小領主が自身の所領を守るために有力領主に従う、という地域社会側の要請が注目されてきた。しかし、本報告に基づくならば、むしろ上からの改革によって国衆が生まれると解釈することも可能になるのである。
また、古河公方の「有力領主の軍事的な協力によって支えられる存在」「諸氏が寝返れば簡単に危機に瀕する権力」という性格は、通常の領域権力の性格と同質のものである。たとえば、戦国大名は国衆の軍事的な協力によって支えられており、朝倉氏・今川氏・武田氏のように国衆の寝返りにあった戦国大名は簡単に滅亡してしまう。また、旧幕府軍が戊辰戦争で敗北した原因の1つとして、中部地方の諸大名が新政府軍に寝返ったことが指摘されている。筆者は、古河公方権力は鎌倉公方権力の延長上に考えるよりも、むしろ戦国大名や江戸幕府などと類似する存在だと以前から考えている。本報告の結論は、筆者の考えを補強するものであり、個人的にもとても意義深いものであった。
3.毛利氏と九州国衆―九州撤退後の関係と秀吉の九州攻め―
これは聖心女子大学の北村嘉奈子氏による報告である。
豊臣政権は天下一統を達成する際に、政権に従った有力な豊臣大名を「取次」として、周辺地域の「惣無事」実現を求めていた。これは、有力豊臣大名が前時代から周辺の戦国大名・国衆との間に構築してきた関係を前提として天下一統をめざしたためである。
九州に対してこの役割を担ったのが、中国地方の大大名である毛利氏であった。しかし、肝心の毛利氏は永禄12年(1569)に九州から撤退している。先行研究では、永禄12年以前の関係を前提として、天正14年(1586)の九州攻めにおける毛利氏の役割を論じていたのである。本報告では、これまで未解明であった永禄12年から天正14年までの毛利氏と九州国衆の関係を中心に論じている。
北村氏によると、この時期の九州国衆は以下の3つに分類できるという。
- 毛利氏に依存する「相対的に力の弱い国衆」
- 自立的な「相対的に力の強い国衆」
- 柔軟な距離感を保つ「中間的な勢力の国衆」
そして、上記の分類には永禄期に毛利氏の支援で国衆が本領を回復できたか否かが関わっているという。
北村氏の研究は、これまで東国を中心にして行われてきた国衆論が、西国にも適用できることを示した事例の1つとしてとても重要である。国衆論において、国衆は軍事的安全保障を期待して戦国大名に従属する。一方、戦国大名が国衆の存立維持を達成できない場合、国衆は簡単に戦国大名を裏切ってしまう。上記の3分類において、毛利氏の支援によって存立維持に成功した国衆は毛利氏への依存度を増し、存立維持に失敗した国衆は毛利氏から自立する、という関係にあるのであり、これはまさに既存の国衆論と同じ理論である。
また、そもそも毛利氏が九州で戦っていた相手は、豊後の戦国大名・大友氏である。九州北部の国衆は、毛利氏と大友氏の「境目」に位置しており、彼らは情勢に応じて毛利氏・大友氏に従ってきたのである。このように、国衆の動向によって戦国大名の戦争が誘発されるという流れは、東国研究では「国郡境目相論」として理論化されている。
仮に、毛利氏が九州から撤退した後、九州国衆との関係を完全に断ってしまったら、彼らは大友氏に従属することになるだろう。その場合、「国郡境目相論」が発生する地域は周防に移ってしまうことになる。これは毛利氏にとって領国を縮小させかねないのであり、実際に軍事的な支援をすることができなかったとしても、従属国衆との関係を維持しようとすることは当然といえる。
現在の戦国史研究の大きな課題として、東国の研究と西国の研究が分断していることがあげられる。本報告は、この分断に風穴を開ける画期となりうるものといえる。今後の西国戦国史の研究の発展を祈りたい。


