9月6日・7日、兵庫県立歴史博物館で戦国史研究会第539回例会が開催された。6日は研究報告があり、7日には史料見学があった。今回は研究報告について触れたい。

1.戦国期足利将軍家からみた赤松氏と播磨

報告者は木下昌規氏である。

戦国時代の幕府と地域権力との関係について、これまでの研究では室町幕府―守護体制の変容と捉えるものか、地域権力が幕府を利用するという文脈で語られることが多かった。これに対し、本報告では幕府・将軍を中心に据えて、彼らが地域権力をどのように位置づけていたのかという視点から考察している。

本報告で事例としてあげられた赤松氏は、室町時代に播磨などの守護を務め、侍所所司(さむらいどころしょし)を務める四職家の一員(ほかは山名氏・一色氏・京極氏)であった。こうしたことから、本報告では赤松氏を中心としながら、山名氏・一色氏・京極氏とも比較しながら戦国時代の室町幕府と地域権力の関係を考察している。

まず、明応2年(1493)に発生した明応の政変で赤松政則が在国するようになると、幕府は赤松氏に侍所所司就任を要請しなくなる。これはほかの四職家についても共通するものであり、狭義の幕政に四職家を必要としなくなったといえる。しかし、軍事動員はたびたび行っており、軍事力への期待は残っていた。これが、天文年間(1532―1555)になると軍事動員もしなくなり、国役賦課など経済面のみ期待される存在へと変化していく。

従来の幕府に対する評価には、権力を喪失した権威的な存在と捉えるか、いまだに政治体制の中心にいた存在と捉えるかの2種類の解釈があった。しかし、前者は地域権力が独立した権力となっている点、後者は幕府と地域権力のつながりが維持されていた点に注目しており、両者ともに「地域権力とつながっていれば権力として存立できる」「地域権力とつながっていなければ権威的な存在になってしまう」という前提に立っていることには変わりなかった。

しかし、本報告では、むしろ幕府のほうから一定程度、地域権力との距離を置こうとしている点が明らかになった。つまり、地域権力との関係が希薄になることが、必ずしも幕府権力を減退させるわけではなく、幕府は幕府単体で権力体として存立できているということを示唆している。

また、これまでの幕府と地域権力との関係では、守護という役職や守護家という家格に注目されることが多かった。しかし、今回注目された侍所所司のように、幕府の役職・家格は守護・守護家以外にも存在する。今後の幕府研究では、こうしたさまざまな役職・家格がどのように変質していってたのか(あるいは維持されているのか)を見ていく必要があるだろう。

2.中島元行「中国兵乱記」の成立事情―各種史料との比較検討を通じて

報告者は森俊弘氏である。

今回、検討対象となった「中国兵乱記」とは、明応の政変から、天正年間(1573―1592)までの中国地方の戦国史をまとめた軍記物である。著者とされる中島元行は慶長19年(1614)に死去しており、とくに戦国後期の内容については筆者が実際に体験した記述であるとして、これまでは二次史料ながら比較的高い評価を受けてきた。

しかし、「中国兵乱記」の跋文(あとがき)をみると、元和元年(1615)の成立とあり、著者とされる中島元行が慶長19年に死去していることとの整合性がとれないという問題がある。そのほかにも、引用されている史料や、ほかの軍記物との記述の比較をしてみると、実際には17世紀後半に作成されたものということができる。

報告者は、著者と制作年代を偽っているという点で、「中国兵乱記」を「偽書」と評価している。二次史料の史料批判を行ううえで、その成立年代はとても重要な要素である。とくに、これまで「中国兵乱記」の価値が高いとされてきたのは、実際の体験者による記述であるという点に依拠するものであった。したがって、「中国兵乱記」の成立年代が実際より半世紀以上遅く、中島元行の著作ではないとなると、「中国兵乱記」の史料的価値は大幅に下がることになるだろう。

もちろん、「偽書」であったからといって、内容がまったく使えないわけではない。「中国兵乱記」の記述が何を参考にしているのかを分析することで、使える内容と使えない内容を区別できるようになるものと思われる。いずれにせよ、二次史料を扱う際には、とくに成立年代やほかの二次史料と比較のうえで、情報を精査して扱う必要があることを再認識させられる報告であった。