2025年8月24日、山梨県帝京大学文化財研究所にて、第67回武田氏研究会例会が開催された。報告者は、半澤直史氏と内藤和久氏の2名で、今回はおもに武田氏に関わる城郭や道路についての議論となった。
半澤報告の論題は、「能見城防塁の築城主体について―『家忠日記』の内容と城郭を中心に―」である。「能見城防塁」(能見城、山梨県韮崎市)について、諸史料から実態の解明を試みたものである。能見城防塁は『甲斐国志』において武田氏本拠の新府城(韮崎市)の外郭という認識がされており、古くは武田氏によって築城されたと考えられていたが、近年では天正壬午の乱の時期に徳川氏によって築城されたという見解が有力視されている。しかし、徳川氏による築城は能見城防塁の全部分か、あるいは部分的なものだったのかが判然としない。そこで半澤氏が重視したのが、『家忠日記』『三河物語』『乙骨太郎左衛門覚書』を中心とした普請状況が記された史料である。
これらの史料をみると、徳川氏時代の能見城防塁は「取出」と称されており、つまりは砦である可能性が高いという。同時期に同じく「取出」と呼称された城郭は、ほかには乙骨陣場(長野県富士見町)・右左口砦(山梨県右左口町)・勝山城(山梨県都留市)がある。これらの地形を検討すると、いずれも共通点として小高い丘状にあって、若干の山城構造が認められるという。そして、能見城にも防塁以外にこれらと類似する遺構が存在していることがあわせて明らかになった。
こうなると、徳川氏が普請対象としたのは、防塁本体ではなく砦である可能性が浮上してくる。ただ、甲斐国で砦を含めた大規模な城郭普請が可能であった(広範囲な地域から人足を集める体制がとられたであろうと推定される)時期は、武田氏の新府城築城時期であり、武田氏滅亡後では該当しない。そのため、徳川氏による普請は部分的な補修であって、築城主体は武田氏であったと考えられる。『甲斐国志』の記述にあるように、新府城の外郭として築城された可能性が高い。報告者はこのようにまとめている。
内藤報告の論題は、「甲駿通路の警固―観応の擾乱と中道往還―」である。後世に「中道往還」と呼称された甲斐国と駿河国を結ぶ道路は甲駿国境から甲府盆地までの最短ルートであって、古墳文化の流入経路である。戦国期には、織田・徳川氏も使用し戦略的にも重視された。中道往還の研究史について、戦国期の戦乱と関連させたものは数多くあるが、それ以前の時期にあたる南北朝期に焦点を当てたものはこれまでみられない。そこで、本報告では南北朝期に全国規模で起こった観応の擾乱を取り上げ、中道往還における「警固」に関わった人々の属性について考察している。
「警固」とは何か。現代の我々の理解でいえば「警備・警戒すること」もしくは「警備する人」になるが、古代律令の「警固式」は天子身辺や宮都といった人や場所に対して守りを固めるといった意味になる。古代の関の機能は道路の閉鎖・遮断であり、これが中世における警固という言葉の意味そのものである。
観応の擾乱は、中道往還における通路や関の警固にも深く関わってくる。この乱は全国規模のものであり、甲斐にも戦火が及んでいた。今回の報告で内藤氏が注目したのが、七覚寺(現在の七覚山円楽寺、山梨県甲府市)で起こった足利尊氏方と直義方の戦い(七覚寺合戦)である。残存する尊氏方武将による複数の軍忠状や、七覚寺およびその周辺の遺構・地形を元にして詳細な分析結果が示された。内藤氏は、七覚寺の戦いは単なる局地戦ではなく、それ以前に発生した薩埵山合戦(駿河国での戦い)に呼応して発生したものであって、尊氏方と直義方による大規模な戦いのなかに位置づけられるとする。
一連の合戦に関連した甲駿間における通路や関の警固の戦略的な意味は、中道往還の遮断と流通の確保であったと推定した。直義方として警固に携わったのは、富士大宮の社人を統括する富士氏である。一方、尊氏方として警固に携わったのは、伊勢内宮ら斎宮に関わりを有する波多野氏である。両者の聖的・流通的な属性の一致は偶然ではなく、警固に携わった存在は宗教や流通に関与する武力集団であったとまとめている。また、中道往還に該当する山道には、南北朝期のものと推定される敵軍の侵入防止のための遮断施設の遺構が複数存在するというのはきわめて興味深い。
総じて、今回の半澤・内藤両氏による報告は、城郭や通路が有する軍事的防衛の意義について深く考えさせられる機会となった。南北朝期から戦国期にかけて次第に戦乱状態が恒常化するにつれて、城郭や通路に関与する人々が自らの生き残りのためにどのように動き、どのような敵軍に備える工夫を凝らしたのか、それらを読み解いたうえでどのような歴史的意義があるのかを問う報告であった。


