はじめに

6月29日、敬愛大学にて里見氏研究会第26回例会が行われた。報告者は青山学院大学大学院の安田健人氏で、論題は「戦国末期の小弓公方に関する一考察」である。

関東足利氏は、足利尊氏の四男・基氏を祖とする一族で、代々鎌倉公方として関東の将軍の立場にあった。享徳の乱以降、5代鎌倉公方の足利成氏は古河(茨城県古河市)に移り、戦国時代には古河公方と呼ばれるようになる。今回の報告の主題である小弓公方とは、関東足利氏の庶流にあたる家系で、2代古河公方・足利政氏の子である足利義明を祖としている。

足利義明は小弓城(千葉県千葉市)を中心に房総半島に勢力を持っていたが、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で討ち死にする。その後、足利頼淳(義明の子)は里見義堯に庇護されるが、小弓公方家は領域権力としての実体を失っていたことから、これまであまり研究対象にはなってこなかった。

しかし近年、谷口雄太氏によって足利的秩序論が提起されたことで(谷口2019)、実権の持たない足利氏にも存在価値があったことが明らかになっている。本報告は、こうした研究状況をふまえて、天正期の小弓公方家に関する諸論点をあげたものとなっている。本報告であげられた論点はたくさんあるが、ここではそのなかでも私が注目した3点に絞ってみていきたい。

1.足利家国の系譜関係

足利家国とは、系図上では4代古河公方・足利晴氏の子とされる人物で、天正前期に里見氏と連携した政治活動が確認できる。しかし、黒田基樹氏によって家国は小弓公方家の人間、具体的には義明の子で頼淳の兄にあたるのではないかという指摘がなされている(黒田2024)。黒田氏は「古河公方系図」に家国が雪下殿(鶴岡八幡宮別当)になっているという記述に注目し、義明ももともと雪下殿であったことから、義明の権限を継承したのではないかとしている。そのうえで、権限を継承している以上、家国は義明の子に位置づけられると評価している。

しかし、義明の先代の雪下殿にあたる尊敒(足利成氏の弟)と義明の間には直接の血縁関係はない。したがって、個人的には雪下殿の権限を継承していることが義明と家国が親子であることを示すものにはなりえないだろうと考えている。

一方で、報告者は、黒田氏の指摘を肯定的に継承している。とくに、後述する天正の内訌時の家国の動向から、家国と頼淳が親密な関係にあることがうかがえ、これは血縁関係に基づくものではないかと評価している。

また、近年雪下殿関係の史料が京都の日記から見つかったという。家国の系譜関係については現状では結論を出すことができない。今後の研究課題といえるだろう。

2.天正の内訌における足利家国の動向

天正6年(1578)、安房の戦国大名・里見義弘が死去し、子の里見梅王丸が家督を相続した。しかし、梅王丸の兄・里見義頼は梅王丸に反発し、ここに天正の内訌が発生した。また、同時期に上総の国衆である正木憲時が里見氏に対して反乱を起こしている。里見領国は、梅王丸・義頼・憲時の三つ巴の戦いとなっていた。この対立は天正9年まで続く。梅王丸の本拠地・佐貫城(千葉県富津市)を義頼が落とし、さらに憲時は家臣に裏切られ本拠地・小田喜城(千葉県大多喜町)で暗殺され、最終的に義頼の勝利に終わった。

この戦いに関係して、足利家国の動向を示す史料が以下の2点確認できる。

【史料1】足利家国感状(武州文書、『戦房』1762号)
去比佐城(佐貫城)没落之砌、父但馬入道(岡本元悦)抽諸人走廻之条、忠信之至、無比類候、尤以感悦候、因茲御肴被下之候、向後愈可励忠節候、謹言、
   (天正8年)霜月廿四日       (花押)
    岡本兵部少輔(氏元)殿

【史料2】足利家国書状(潮田文書、『戦房』1802号)
懇言上、御悦喜被思食候、不思儀〔議〕世上故、義頼江御進退之儀被相憑候処、如何ニも無々沙汰致走廻候、先以心安可存候、委細高滝兵庫助可申遣候、謹言
   (天正9年)六月廿七日       (花押)
     太田美濃入道(道誉)殿

【史料1】の宛所である岡本氏元は里見氏の家臣であり、文中に登場する岡本元悦の子である。元悦・氏元親子は天正の内訌時には義頼方に属しており、梅王丸が籠もる佐貫城攻めで功績をあげた。この史料には、家国が元悦の功績を賞して氏元に恩賞を与えたことが記されており、素直に読むのであれば、家国は天正8年11月24日の段階で義頼方であったと評価することができる。

一方、【史料2】では、義頼に対して「御進退」を頼んだとある。「御進退」について、基本的に足利氏が尊敬語を使う他者は想定できないため自敬表現と考えられ、これは家国自身の立場の安定を義頼に頼んでいるということになる。家国が立場の安定を頼まなければならない状況ということは、当時の家国の立場はきわめて不安定な状況にあったということになる。具体的には、反義頼方(梅王丸方か憲時方かは不明)についており、家国が支持する勢力が義頼によって滅ぼされてしまったので、天正9年6月27日段階で家国の立場が危うくなっているということが想定できる。

つまり、現状では、天正8年11月には義頼と仲良くしていたのに、それから半年経った後には義頼との関係が悪化しているということになってしまい、時系列的に矛盾が生じている。

この点について、報告では、【史料2】の「御進退」の主体を頼淳と捉えれば解決するのではないかとした。頼淳が憲時に味方していたことはすでに明らかになっており(佐藤2009)、憲時が劣勢となっているなかで頼淳の立場の安定を家国が義頼に求めたのではないか、と評価している。また、ここで家国と頼淳の親密関係がうかがえることが、前節で触れた両者が兄弟であったとする報告者の評価にもつながっている。

ただし、この点については里見氏研究会代表の滝川恒昭氏らから、頼淳のことを指すのであれば書状には「頼淳御進退」や「頼淳之御進退」などという文言があって然るべきである、との反論もみられた。滝川説では、【史料1】を佐貫城攻めの恩賞と捉えるのではなく、梅王丸の助命に対する恩賞と捉えている。実際、梅王丸はこの後も生き延び、出家して余生を過ごしている。つまり、家国を梅王丸方と捉え、岡本元悦が梅王丸の命を取らずに助命交渉に奔走したという点を家国が賞したのだとする解釈である。そして、家国が梅王丸方であるのであれば、【史料2】で家国自身の「御進退」を義頼に頼んでいるのは辻褄があうわけである。

なお、佐藤博信氏は梅王丸は義氏との関係が深かったことを指摘している(佐藤1991)。滝川説を採用する場合、梅王丸は義氏と家国の2人を擁立していたことになり、家国にとっては憲時と連携していた頼淳より義氏のほうが親密だったと捉えることができる。つまり、滝川説に基づくのであれば、家国は晴氏の子である可能性が高いといえるだろう。

個人的には、戦国大名は名目的に「足利VS足利」の対立構図を作ろうとしていたとする谷口雄太氏の指摘に基づくと、滝川説では義頼が足利氏を擁立していないことになってしまうので想定しにくいかと思われる。したがって、この議論については報告者の説を採用したい。

3.喜連川氏の取り立てについて

天正18年の小田原合戦後、豊臣政権は小弓公方家を取り立てて下野国喜連川(栃木県さくら市)を与えている(なお、初期喜連川氏の動向については拙稿2024を参照)。本報告では、その背景が論点となっている。

先行研究では、①秀吉の「側室」になった島子の嘆願によるもの(佐藤1981)、②徳川牽制策(阿部2006)、③喜連川での境目相論(境界紛争)解決策(竹井2012)、④島子の前夫が喜連川を治めていた縁(佐藤1981)、の4つが指摘されている。

①については阿部氏によって否定されている(阿部2006)。②③については戸谷氏によって否定されている(戸谷2024)。したがって、先行研究では④が妥当とされている。

しかし、報告者も④を支持してはいるものの、④は小弓公方家に喜連川の地を与えた背景の説明であり、そもそも小弓公方家を取り立てた背景はまた別に考えるべきではないかとしている。そこで報告者が注目するのが②である。②は笠谷和比古氏の二重公儀体制論(笠谷1997)に基づく評価であるが、すでに二重公儀体制論を天正期に適用する議論は否定されている(小川2022)。

ただし、戸谷氏は二重公儀体制論とは別の観点から全国統一後の豊臣政権は直臣層を中心とした政権運営を企図し、徳川家康などの大大名を政権中枢から遠ざけたと指摘している(戸谷2006)。こうした指摘をもとに、報告者は②の家康牽制という見方もありえるのではないかという可能性を提示している。

一方で、黒田基樹氏・柴裕之氏などは豊臣政権内の家康を「羽柴家当主に最も近い立場」と評価している(黒田2023など)。こうした見方からは、家康は秀吉の代行者兼補佐役という立場になるのであり、そもそも家康を牽制する必要性がなくなってしまう。

いずれにせよ、これは関東足利氏研究において解決するものではなく、豊臣政権研究の文脈で検討するべき論点といえる。今後の研究成果をまちたいところである。

おわりに

本報告では、ほかにも今回触れられなかったさまざまな論点が見出された。戦国時代の足利氏研究については、近年一般にも広まっているところであるが、そのほとんどが幕府研究・将軍研究に関するものである。しかし、室町幕府は織田信長に滅ぼされ、足利将軍家は平島公方として残ったものの、蜂須賀家の客分となったにすぎない。一方で関東足利氏は小田原合戦まで生き残り、その立場を失うのは下剋上によるものではなく豊臣政権という外的要因によるものである。そして、江戸時代には幕府から特別待遇を受けるに至っている。

すなわち、権威の維持に成功しているのは将軍家ではなく関東足利氏なのである。戦国時代の権威を考えるのであれば、将軍をみるより古河公方・小弓公方をみたほうがよいのは間違いない。そういった意味で、今後、関東足利氏の研究が進展することを期待したい。

【参考文献】
阿部能久「喜連川氏の誕生」(同著『戦国期関東公方の研究』思文閣出版、2006年)
小川雄「「二重公儀」の実像-徳川氏・羽柴氏の協調関係とその破綻」(渡邊大門編『江戸幕府の誕生-関ヶ原合戦後の国家戦略』文学通信、2022年)
笠谷和比古「徳川家康の源氏改姓問題」(同『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、初出1997年)
黒田基樹「羽柴(豊臣)政権における家康の地位」(同編著『徳川家康とその時代〈戦国大名の新研究3〉』戎光祥出版、2023年)
黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」(同編『古河公方・足利義氏〈中世関東武士の研究第37巻〉』戎光祥出版、2024年)
佐藤博信「古河氏姫に関する考察」(同著『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年、初出1981年)
佐藤博信「関東足利氏と房総里見氏」(同著『中世東国政治史論』塙書房、2006 年、初出1991 年)
佐藤博信「戦国期の関東足利氏に関する考察―特に小弓・喜連川氏を中心として―」(同著『中世東国の権力と構造』校倉書房、初出2009 年)
竹井英文「天正末期下野国の政治情勢と豊臣政権―年未詳七月晦日付け徳川家康書状をめぐって―」(同著『織豊政権と東国社会』吉川弘文館、2012年)
谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文館、2019年)
戸谷穂高「天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」(『東国の政治秩序と豊臣政権』吉川弘文館、2023年、初出2006年)
戸谷穂高「喜連川足利頼氏と豊臣政権」(『里見氏研究』第3号、2024年)
拙稿「足利国朝・喜連川頼氏論」(2024年、https://humaniste.jp/blog/fd4yuutkl093)