はじめに

喜連川氏は、室町時代に東国で将軍の立場にあった関東足利氏の末裔であり、その家格の高さから、江戸時代には「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と呼ばれた(大嶽2015)。喜連川氏の初代にあたる足利国朝は、元亀3年(1572)、関東足利氏の庶流・小弓公方家の足利頼淳の子として生まれた。天正18年(1590)の小田原合戦の直後、羽柴秀吉から下野国塩谷郡喜連川(栃木県さくら市)の地を与えられた(『戦古』1231号、『喜5上』533頁)。これ以降、喜連川氏は石高の変遷はありつつも幕末まで喜連川を治めた。

なお、名字についてだが、『喜連川町史』では、名字の地である喜連川を与えられたときから喜連川氏を名乗ったとし、それぞれ喜連川国朝・喜連川頼氏と表記している。しかし、「喜連川」名字の初出は慶長7年(1602)であり(『喜2』251頁)、豊臣政権期には「鎌倉」(神奈川県鎌倉市)の地名を名字のように冠して使用している(『戦古』1401号)。これは、足利氏に対しては「足利」の名字を用いずに邸宅・地名を冠して呼称するという室町時代以来の伝統が残っているもので、彼らが「鎌倉」を名字にしていたとはいいがたい。

したがって、国朝は「喜連川」名字を使用しておらず、ここでは足利国朝と表記する。一方、頼氏については慶長7年以前を足利頼氏、それ以降を喜連川頼氏とするのが正しい表記であるが、煩雑になるため本稿では喜連川頼氏に統一する。また、氏族名として用いる場合には、天正18年に喜連川の地を与えられてから、幕末まで本領を治め続けていたという連続性を評価し、名字の変更による分断がみられないことから、「喜連川氏」の表記を用いることにする。

ちなみに、関東足利氏の嫡流にあたる古河公方家の古河姫君(徳源院殿、一般的には「足利氏姫」と呼ばれる)は羽柴秀吉から古河の鴻巣領(茨城県古河市)を与えられており(『戦古』1232)、国朝・頼氏の本妻であると同時に、古河公方家の当主であったことがわかる。また頼氏と古河姫君の子である義親と、義親の子の尊信は鴻巣領に居住しており、正確には古河公方家の人間であった。寛永7年(1630)に頼氏が死去し、後を継いだ尊信は鴻巣領を離れて喜連川に移る。こうして、古河公方家と喜連川氏は名実ともに1つになったのである。

すなわち、寛永7年を境に喜連川氏の性格が変化していることが推察されるのである。そのため、天正18年から寛永7年までの古河と喜連川に分裂・並存していた時期の喜連川氏を、以下では「初期喜連川氏」と表記する。本稿では、初期喜連川氏の政治動向をまとめつつ、関係史料と個々の先行研究を紹介していきたい。

1.足利国朝・喜連川頼氏の略歴

国朝は元亀3年(1572)に足利頼淳と連光院殿(佐野直綱の娘)との間に生まれた。小田原合戦以前の動向は不明で、合戦後の天正18年8月22日、羽柴秀吉から増田長盛(秀吉の出頭人)に対して、国朝が古河で挨拶をしてから喜連川に行くように命令が出されているのが、国朝に関する初見の史料である(『戦古』1231号)。この史料には父の頼淳が「大弓 御所様」と記されていることから、この段階では頼淳が当主であったということになる。その後、11月1日までに国朝に対して秀吉から知行宛行状が出ているので、これ以前に頼淳から国朝に家督相続が行われたといえる(斉藤1985)。年末には上洛しており、この上洛の最中に秀吉から古河姫君と婚姻を命じられる。しかし、国朝は文禄2年(1593)に朝鮮出兵に参陣する途上、安芸国で死去してしまう。その後、国朝の後を継いだのが、国朝の弟の喜連川頼氏である。

頼氏は天正8年に生まれ、当初は石堂寺(千葉県南房総市)に預けられていた。文禄2年に国朝の死を受けて喜連川氏の当主となると、国朝の本妻であった古河姫君と婚姻している。豊臣政権期の頼氏は、秀次事件(関白羽柴秀次が秀吉に対する謀反の疑いをかけられ自害した事件)に対処するための軍役や(『喜5上』467頁など)、年1回の上洛・秀吉への拝礼など(戸谷2024)、通常の大名と同じ待遇を受けている。また、政権との取次は増田長盛と山中長俊が務めていた(戸谷2024)。

慶長3年(1598)8月18日に秀吉が死去すると、10月20日から頼氏は関東十刹(禅宗寺院の格の1つ)についての公帖(住持〈住職〉の任命状)を発給しはじめる(斉藤1987)。五山派寺院に対する公帖は、本来、足利将軍と鎌倉公方・古河公方が発給を行っていた。豊臣政権期には秀吉が発給しており、秀吉の死後、江戸幕府による寺院統制が確立するまでは再び関東足利氏が公帖発給を行っている。なお、これをもって本来庶流であった喜連川氏が嫡流化したとみる向きもある(佐藤1981)。

慶長5年の関ヶ原の戦いでは、会津攻めの段階から那須衆(下野の那須氏一族とその家臣団の総称)と行動をともにしており、西軍蜂起後は結城秀康配下として上杉景勝の押さえを担当している(泉2010)。慶長7年には、このときの戦功を評価され、1000石加増になっている(『喜2』251頁)。その後、慶長19年の大久保忠隣改易と里見忠義転封の際にも、頼氏は那須衆の動向を意識しており、当時の頼氏が那須衆と同じような立場として存在していたことがうかがえる(泉2010)。

徳川氏との取次については、まず対家康は井伊直政が務めている。直政の死後は本多正純が引き継いだようである。対秀忠は大久保忠隣の担当で、忠隣失脚後は本多正信に移り、正信の死後は酒井忠世や土井利勝らが担当している。

元和・寛永年間の動向はつまびらかにはなっていないが、定期的に参府して将軍に挨拶をしていたようである(『喜5上』『喜5下』)。頼氏は寛永7年に死去し、鴻巣館に居住していた孫の喜連川尊信が後を継いだ(『古史』)。

2.初期喜連川氏の史料

初期喜連川氏の史料は、おもに古河公方の史料集に収録されている。以下、それぞれの史料集の特徴を記していきたい。

初期喜連川氏の研究は、佐藤博信氏をはじめとする古河公方研究の一環として行われていた。この研究でまとめられた史料は、古河市史編さん委員会編『古河市史』資料中世編(古河市、1981年、本稿では『古史』と表記)や佐藤博信編『戦国遺文』古河公方編(東京堂出版、2006年、本稿では『戦古』と表記)に収録されている。前者には、一次史料は古河姫君の関係文書が収録されており、初期喜連川氏に関する直接的な史料は収録されていない。ただし、二次史料である系図や過去帳などには喜連川氏の情報も含まれている。一次史料には現れない頼氏の家族については、これらの史料をもとに考察することになる。後者には、古河姫君・足利頼淳・足利国朝と奉行人の関係文書が収録されている。

一方、2000年代に入ると、喜連川氏が治めていた喜連川町で自治体史の制作がはじまった(のちに合併してさくら市が事業を引き継ぐ)。このなかでは、「第二巻  資料編2  古代・中世」(2001年)、「第三巻 資料編3 近世」(さくら市、2007年)、「第五巻 資料編5 喜連川文書 上・下」(さくら市、2007年、以上本稿では『喜2』『喜3』『喜5上』『喜5下』と表記)に関係史料が含まれている。

記述の関係上、第五巻から説明する。ここに収録されている「喜連川文書」は、「天明元年目録」の順番に従って収録されている。「喜連川文書」はこれまでにも『栃木県史』などに収録されていたが、原本がさくら市や東京大学史料編纂所などに散逸するかたちで残っており、すべてが翻刻されていたわけではなかった。本書はそのすべてを1冊にまとめ、さらに史料の画像も載せたものとなっている。これにより初期喜連川氏の史料の9割を占める喜連川文書が翻刻され、本書の発行によって初期喜連川氏研究が大幅に進展することになった。

次に、第二巻だが、ここには那須文書など喜連川文書以外の頼淳・国朝・頼氏関係文書が収録されている。また、第三巻では慶長7年の「龍光院寺領宛行状」と元和元年の「長百姓・由緒の者由来仰せ渡し書」が初期喜連川氏に関係する一次史料である。ちなみに第三巻には『古史』に収録されていない系図類も載っている。

3.初期喜連川氏の先行研究

前述したように、江戸時代の喜連川氏は幕藩体制下で特殊な扱いを受けている。こうした特殊性から、関東足利氏から喜連川氏への移行についての関心は戦前から存在していた。

通史的な叙述としては、さくら市市史編さん委員会編『喜連川町史』第六巻 通史編Ⅰ(さくら市、2008年)がある。ここでは、初期喜連川氏に関する記述として、おもに豊臣政権期のものと関ヶ原の戦いに関するものの2つがある。また、喜連川氏の権威面に注目したものとして、江戸城での年始の挨拶の方法の変遷を追ったものと、寺院との関係性に触れたもののなかで、頼氏に関する言及がある。

こうしてみていくと、元和年間の動向がほとんど扱われていないことがわかる。これは、自治体史における記述の配分の問題ではなく、後述するように、そもそも元和年間の研究が薄いことに原因がある。ただし、元和年間の史料が少ないかといえばそうではない。頼氏関係史料は、秀吉期のもの、秀吉死後の政争に関わるもの、元和年間のものに大別することができ、それぞれほとんど同じ割合で残存している。つまり、元和年間については史料の3分の1を占めているにもかかわらず、豊臣政権期や関ヶ原の戦いに関する研究に比べて圧倒的に遅れている状況にあるといえる。

したがって、以下では豊臣政権期の研究、関ヶ原の戦いと頼氏、喜連川氏の権威の3つの論点に分類して、その先行研究をあげていきたい。

豊臣政権期の研究

大野太平「喜連川頼氏の寄寓に就て」(滝川恒昭編『房総里見氏〈シリーズ・中世関東武士の研究 第13巻〉』戎光祥出版、2014年、初出1935年)は、管見の限り初期喜連川氏に関するもっとも古い研究である。これは戦前の研究ではあるが、喜連川頼氏が当初、石堂寺に寄寓していた事実を指摘している点で重要な論考である。

戦後の研究としては、まず佐藤博信「古河氏姫に関する考察」(同著『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年、初出1981年)があげられる。古河公方・喜連川氏の研究は佐藤氏によって始まったといっても過言ではない。佐藤氏は戦国期の関東を「鎌倉府体制」「公方―管領体制」「関八州国家体制」に三区分し、これまで傀儡にすぎないとされてきた古河公方が、実際には「公方―管領体制」期までは実権を有していたことを明らかにした(佐藤1979)。

越相同盟以降、関八州国家体制となって北条氏に実権を奪われていくが、それでも関東足利氏が命脈を保った背景を考察するのがこの論文である。本来古河公方家が嫡流で小弓公方家が庶流であったが、国朝と古河姫君の婚姻によって両者が統合され、喜連川氏が嫡流化したと結論づけている。この論文は、題名のとおり古河姫君を考察の対象としており、喜連川氏側の動向は古河姫君に関わる部分しか記載がない。しかし、国朝・頼氏の本妻にあたり、かつもともと嫡流であった古河姫君の立場は、喜連川氏について考えるうえで非常に重要な論点となる。とくに近年、女性史研究が進展しており(黒田2021・福田2022など)、こうした研究成果をふまえて改めて古河姫君の立場を考察する必要があるだろう。

次にあげる斉藤司「豊臣期における喜連川氏の動向」(滝川恒昭編『房総里見氏〈シリーズ・中世関東武士の研究 第13巻〉』戎光祥出版、2014年、初出1985年)は、おもに国朝の動向を詳細にまとめたものになっている。「豊臣期」と題しているが、実際は文禄3年に頼氏が上洛して秀吉に拝謁するところまでしか記載がない。年次比定の誤りなど、細かい点での訂正が必要な部分はあるものの、国朝の動向をまとめたという価値はいまだ失っていない。

こうしたなかで、従来の研究を総合して、初期喜連川氏を当時の日本の政治秩序のなかに位置づけようとしたのが、阿部能久「喜連川家の誕生」(同『戦国期関東公方の研究』思文閣出版、2006年)である。この論文では、古河公方(阿部氏は「関東公方」と呼称する)・喜連川氏について戦国期から元和年間にかけて幅広く言及されているが、論旨は秀吉が喜連川氏を取り立てた理由を豊臣政権の政策に位置づけるという点である。すなわち、阿部氏は笠谷和比古氏の二重公儀体制論(笠谷1997)をもとに、家康牽制策の一環として喜連川氏を取り立てたとしている。

しかし、二重公儀体制については、関ヶ原の戦い後に関しては一定の評価を受けているものの、それを秀吉生前時にさかのぼらせて秀吉が家康を警戒していたとする理解は成り立たないことが明らかになっている(平野2015など)。したがって、喜連川氏の取り立てを家康牽制策とみる見方は否定されている(戸谷2024)。

ただし、喜連川氏を地域史に留めることなく、国家史のなかに位置づけようとした点は意義深いものがある。近世後期において喜連川氏が関東足利氏末裔として特殊性が認められていたのは疑いの余地のないことである。江戸幕府ないし徳川将軍が、前時代の“王”をどのように遇したのかというのは、幕藩体制について考えるうえで重要な論点といえるだろう。また、喜連川氏に対する「鎌倉」呼称や「左兵衛督」「右兵衛督」「左馬頭」といった官途、また『元寛日記』に記載されている頼氏の正月儀礼のあり方など、阿部氏が見出した論点は現在の研究においても重要な位置を占めており、基礎研究の部分ではいまだに価値を失っていない。初期喜連川氏の研究における基礎文献の1つといえるだろう。

なお、近年原本が見つかった史料の紹介をしている渡邊浩貴「小弓公方足利氏と豊臣政権の邂逅をめぐって―「足利頼淳宛豊臣秀吉朱印状」発給の経緯をさぐる―」(『神奈川県立歴史博物館だより』8号、2020年)、同「「足利頼淳宛豊臣秀吉朱印状」の紹介――豊臣政権と関東足利氏の再興の視点から――」(『史學』第88巻3・4号、2020年)では、阿部氏の主張をもとに小田原合戦直後の喜連川氏について論を組み立てている。

その後、富田壽「所領から見た成立期の喜連川藩」(下野近世史研究会『近世下野の生業・文化と領主支配』岩田書院、2018年)では、喜連川氏が秀吉から与えられた所領について、近世の石高などとの比較を通じて検討している。ここでは、文挟村を鴻巣領の替地と捉え、文挟村を与えられたことが近世中期以降の新田開発につながるとしている。

また、豊臣期の喜連川頼氏については戸谷穂高「喜連川足利頼氏と豊臣政権」(『里見氏研究』第3号、2024年)で動向が詳細にまとめられている。戸谷氏の関心は豊臣政権の取次論にあるので、頼氏の取次を担当した増田長盛・山中長俊の職掌などがおもな論点になっている。ただし、題材が喜連川氏ということもあり、文禄3年で記述が終わっている前掲斉藤論文の続編に位置づけることができるものでもある。この論文によって、豊臣政権期の喜連川氏は参勤免除を獲得してはおらず、ほぼ年1回のペースで上洛していたことが明らかになっている。

関ヶ原の戦いと頼氏

前述のとおり、頼氏が居住していた下野は、会津攻めの際に「境目」(領域の境界)として戦場となった。こうしたことから、慶長5年前後の下野は従来から研究対象となってきた。

その嚆矢となるのが、渡壁正「関ヶ原役における那須衆の動向と論功行賞について――『譜牒余録』角田与五右衛門の「覚」を中心として――」(『軍事史学』通巻93号、1988年)であろう。渡壁氏は、関ヶ原の戦いにおける那須衆の構成員について、『譜牒余録』収録の史料に記されている恩賞の差などからその政治的な立場の違いを明らかにしている。初期喜連川氏については、この史料のなかに頼氏の名前が記されているという点で大きく関わってくる。ただし、渡壁氏は喜連川領が那須衆の領地に接しているために関ヶ原の戦いの段階では一体的に把握されたのだとしており、あまり重視していない。

これに対し、当時の喜連川氏が那須衆の一員であったと、『譜牒余録』の記載を積極的に評価したのが、泉正人「近世初期の喜連川家と徳川氏」(『早実研究紀要』44号、2010年)である。泉氏によれば、慶長19年の段階でも頼氏が那須衆の動向にあわせようとしているところから、関ヶ原の戦い前後だけの例外的な扱いではなく、江戸時代初期には喜連川氏が那須衆の一員として認識されていたとする。さらに、近世中期以降にみられる「国勝手」(年頭拝礼以外の参勤免除)は、そもそも那須衆が参勤を免除されている交代寄合であるから、頼氏も免除されたのだ、と結論づけている。

前述の通り、「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と呼ばれた喜連川氏は、これまでその家格の高さや幕藩体制下における特別待遇が注目され、ことあるごとに関東足利氏の末裔であるという由緒、その血統の高さや貴種性が強調されてきた。泉論文の画期的なところは、こうした先入観を取り払い、同時代的な視点から喜連川氏について考察したところにある。換言すれば、喜連川氏の特殊性は必ずしも実証されていないのである。

また、第2節で紹介した「喜連川文書」の頼氏関係史料のうち、約3分の1が関ヶ原の戦い前後の政争に関わるものである。こうしたことから、関ヶ原の戦いそのものの研究においても注目されており、関係史料を1つずつ考察したのが白峰旬「「喜連川文書」における関ヶ原の戦い関係文書について」(『歴史と文化』3、2018年)である。

初期喜連川氏の権威

権威に関する論点としては、先ほどから言及しているとおり頼氏の公帖発給が注目される。これは、本質的には権威より権限・権力に通じる論点であるが、豊臣政権や江戸幕府といった統一政権があり、すでに公儀性を失っていた喜連川氏が、仏教に対する権限だけは保持し続けている点に対する説明として、喜連川氏の権威性が指摘されるのである。

この頼氏の公帖発給については、斉藤司「喜連川家の公帖発給について」(『信濃』第39巻第3号、1987年)で詳しく研究されている。公帖発給権は、戦国期には古河公方家が掌握しており、佐藤氏をはじめとしてこれを頼氏が掌握したことも喜連川氏が嫡流化した根拠の1つとされている。ただし、古河公方の公帖は当主が単独で発給しているのに対し、頼氏の公帖は奉書を伴っているという違いがある。これについては、頼氏が嫡流化したものの、本来は庶流であったことが影響しているとされている。

しかし、前掲泉論文によって、初期喜連川氏が必ずしも権威性を有していたわけではないことが明らかになった。泉氏の考察を踏まえて、「天下ノ客位」「無位ノ天臣」という先入観を取り払って改めて頼氏と豊臣政権・江戸幕府との関係性を考察したのが、岸野達也「喜連川頼氏の政治的立場―役負担と参勤の検討を通じて―」(戦国史研究会第523回例会、駒澤大学、2024年5月18日)である。公帖発給や儀礼秩序についても、こうした点を踏まえて改めて考察する必要があるだろう。

おわりに

以上、初期喜連川氏についての研究がこれまでどのように行われてきたのかを一瞥してきた。喜連川氏はわずか5000石の領主にすぎず、近世日本の政治史にほとんど影響を与えていない。それにもかかわらず研究対象となっているのは、まさにその特殊性が注目されるからであり、幕藩体制下における喜連川氏の位置づけは近世日本の儀礼秩序を考えるうえで必要不可欠だからである。

しかし、こうした論点に注目が集まるがゆえに、逆に喜連川氏の特殊性が自明なものとして捉えられ、そこに対する疑いの目が向けられなかったという問題点がある。こうした先入観の克服は、わずかに前掲泉論文が主張しているのみにすぎない。今後は、基礎的な動向を丹念に追い(とくに研究の薄い元和年間など)、同時代的な視点に基づいて初期喜連川氏のあり方を追究していく必要があるだろう。

【参考文献】(第3節であげなかったもののみ)
大嶽浩良「喜連川藩」(『藩史大事典』第2巻 関東編、雄山閣、2015年)
笠谷和比古「徳川家康の源氏改姓問題」(同『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、初出1997年)
黒田基樹『戦国「おんな家長」の群像』(笠間書院、2021年)
佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点」(同著『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年、初出1979年)
平野明夫「秀吉は、家康を警戒していたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』洋泉社〈歴史新書y〉、2015年)
福田千鶴『大奥を創った女たち〈歴史文化ライブラリー549〉』(吉川弘文館、2022年)