2024年12月14日、青山学院大学青山キャンパスで青山学院大学史学会大会が開催された。内容は4つの研究報告と書評会で構成されている。このうち、日本中近世移行期に関する報告が1つあったので、その内容と論点をまとめていきたい。報告者は安田健人氏で、論題は「豊臣政権下における古河公方家」である。
小田原合戦後、羽柴秀吉の命令で足利国朝(のちの喜連川氏)と古河姫君(足利氏姫、古河公方家)が婚姻する(後述の【史料】)。先行研究では、これをもって対外的には古河公方家が喜連川氏に吸収された一方で、「内部では非統一の二元的支配がおこなわれていた」と評価されている。しかしながら、喜連川氏の研究に比べて古河公方家の研究は圧倒的に少なく、黒田基樹氏による概説(黒田2021)が唯一である。本報告は、こうした研究動向を踏まえて、豊臣政権期の古河姫君について検討したものとなっている。
【史料】羽柴秀吉書状(喜連川文書、『戦古』1233号)
かんにんぶんおほせつけまいらせ候れいとしてはる〳〵上らふのほせられ候、ことにこしりとをししんとう五・くに光のわきさし給候、御心さしよろこひ覚之候、それにつき国ともとゑんの事しかるへく候、そのうへにもしいつかたへうつられ候共、たゝいまのちきやう屋しきかたいさゝかさういあるましく候、なをかうさうす申へく候、かしく、
(天正十九年)三月七日 ひて吉(朱印)
(ウハ書)「(切封墨引)
こかひめ君へまいるへし」
【史料】から、古河姫君は秀吉から堪忍分(生活を支えるために支給された土地で、基本的に諸役免除となる)を与えられたことがわかる。安田氏は、古河公方家の家長が女性であり正式な当主がいなかったことから、遺族とみなされて与えられた土地が堪忍分となったのではないかとしている。
また、【史料】には「もし何方へ移られ候共」(適宜漢字に変換)とあり、「何方」とは具体的に国朝の所領がある下野の喜連川(栃木県さくら市)が想定され、天正19年(1591)3月7日段階では古河姫君が喜連川に移住することが想定されていたとする。このことから、安田氏は堪忍分はあくまでも古河姫君個人の所領で、豊臣政権は古河公方家という家の存続を想定していなかったと評価した。しかし、同年5月に古河姫君の鴻巣(茨城県古河市)在住が決定し、古河公方家が存続することになったという。
その後の古河公方家について、黒田氏は羽柴家と贈答儀礼を通じて関係を持ちつつ、徳川家の統治下に置かれたと評価している。しかし、安田氏の検討によると、徳川家が古河公方家に関わっているのは文禄5年(1596)の一例しかなく、これをもって徳川家の統治下に置かれたと評価するのは早計だとする。むしろ、古河公方家と徳川家の直接の接点を示す史料はほかになく、喜連川氏も徳川家と接点を持つのは慶長4年(1599)以降である(泉2010)のに対し、古河公方家・喜連川氏はともに増田長盛・山中長俊を通じて豊臣政権と関係を持っていることから、徳川家とは別個の独立した領主であったと評価している。
なお、たしかに泉氏は喜連川氏と徳川家が関係を持ったのは慶長4年としている。しかし、(年未詳)酉年7月19日付けの本多正信宛て喜連川頼氏書状写(『喜5上』500頁)は、本多正信の没年が元和2年(1616)であることを踏まえると、慶長2年か慶長14年となる。このうち、収録されているほかの史料や頼氏関係文書の残存状況から慶長14年の可能性はきわめて低く、この史料は慶長2年と推定される。この場合、秀吉の生前時から喜連川氏と徳川家が関係を持っていたことになるため、この点は再考が必要である。しかし、豊臣政権期の古河公方家が徳川家に包摂されていなかったという評価が妥当であることに変わりはない。
その後、会津攻めの時期には古河公方家の直臣である永仙院が頼氏にも情報を伝えており、古河公方家と喜連川氏が連携して対応していたようである。また、慶長5年5月25日に喜連川頼氏が古河にいたことが確認できる(『喜5上』512頁)。これについて、従来は古河城と考えられてきたが(白峰2018)、古河姫君のいた鴻巣館の可能性もあるのではないかという説を安田氏は示した。この点は、当時の徳川家の動向や小笠原秀政(古河城主)の立場をみながら総合的に判断する必要があるだろう。
以前、戦国史研究会で喜連川頼氏について検討した報告があったが、ここでも喜連川氏と古河公方家が別家であった可能性について言及されていた。今回の報告で古河公方家の側から詳細に検討したことで、古河公方家・喜連川氏双方の認識として、両者が別家として存在していたことが明確化したといえる。今後は、これらの研究を踏まえて、豊臣政権期の武家における血統意識を検討していく必要があるだろう。
【参考文献】
泉正人「近世初期の喜連川家と徳川氏」(『早実研究紀要』44号、2010年)
黒田基樹『戦国「おんな家長」の群像』(笠間書院、2021年)
白峰旬「「喜連川文書」における関ヶ原の戦い関係文書について」(『歴史と文化』3、2018年)
【出典】
『戦古』=佐藤博信編『戦国遺文』古河公方編(東京堂出版、2006年)
『喜5上』=さくら市史編さん委員会編『喜連川町史』第5巻 資料編5 喜連川文書 上(さくら市、2007年)

