令和7年6月28日、東洋大学白山キャンパスにおいて、白山史学会第61回大会が開催された。時間は午後1時30分から、計4本の報告・講演会が行われた。本記事では、このうち岸野達也氏「豊臣期・徳川初期における関東足利氏の嫡庶関係」を取り上げる。
そもそも、関東足利氏とは室町時代に鎌倉公方を務めていた一族で、永正期に古河足利氏と小弓足利氏に分裂した。その後、小弓足利氏は天正18年(1590)に、当主の足利頼淳が下野国喜連川を与えられたことで、喜連川足利氏となった。翌年、古河足利氏の当主・古河姫君と頼淳の子である足利国朝が婚姻した。佐藤博信氏は、この婚姻により関東足利氏が統一され、喜連川足利氏が嫡流となったと主張した。そして、関東足利氏の貴種性を評価した秀吉や家康によって、特別な地位や待遇を与えられたと考察した。
しかし、喜連川足利氏の特別な地位や待遇に関しては、江戸時代中期に確立されたものであり、豊臣期・徳川初期の人々の意向は不明瞭である。さらに、安田健人氏は、婚姻後も、両足利氏は別の領主として存在していたと主張している。本報告では、これらの研究成果をふまえて、古河足利氏と喜連川足利氏のどちらが関東足利氏の嫡流であったのかについて検討している。
まず、喜連川足利氏が嫡流とされた根拠を先行研究から①公帖発給権、②「鎌倉」呼称、③官途、④古河姫君の呼称、の4つに整理し、これらについてそれぞれ批評している。なかでも、2「鎌倉」呼称に関して、これまで喜連川足利氏が鎌倉を称していることから、鎌倉公方の地位を公儀が認めたとされてきた。しかし、古河が鎌倉と並ぶ都市であることが戦国期に認識されていることや、鎌倉公方でなくても鎌倉を呼称している人物がいることから、疑問視した。このほかにも、嫡流とされた論説を再検討することで、両者の嫡庶関係を示す根拠とはならないことを主張した。
次に、諸史料を用いて、①古河姫君、②喜連川氏、③古河姫君の子である足利義親、の3つの視点から当事者らの認識を検討した。古河姫君が自らの意思で古河に居住地を残したことと、国朝が定期的に古河に立ち寄っていることから、両者はあくまで別の領主であったことを示した。そして、義親が「古河源義親」と名乗り、頼氏が「喜連川源頼氏」と名乗っていることから、別の領主として存続していることを指摘した。また、国朝の死に伴い、文禄2年(1593)に頼氏と再度結婚していることから、喜連川氏は古河姫君の外戚という立場を確立する必要があったと考察した。このように、別の領主として存続していること、喜連川足利氏が古河姫君の正当性を承認していることを考察した。
最後に、公儀との関係について、知行役の負担に注目している。豊臣政権は、古河姫君の諸役を免除している。一方で、頼氏は、一貫して知行役を負担している。このことから、古河足利氏の待遇が特別であり、喜連川足利氏の軍役奉公は他の武家と同じであることを指摘した。また、参勤に関しては、古河姫君は代理人を秀吉に拝謁させているが、本人は行っていない。一方で、喜連川頼氏は豊臣期と江戸時代に定期的に参勤している。こうしたことから、古河足利氏にのみ特別待遇があったことを指摘した。
以上のことから、岸野氏は、古河足利氏が、関東足利氏の嫡流として認められていたと結論付けた。本報告は、これまでの先行研究から、情報を精査し、再検討を施したものであった。そして、筆者も岸野氏と同じく、古河足利氏を嫡流と考える。喜連川足利氏が嫡流とされた根拠は、婚姻により両足利氏が統合されたことがあげられる。しかし、当事者らの認識は明らかに別の領主として存在しているものであった。そのため、両足利氏は統合されておらず、婚姻を画期とすることはできない。
また、これまで、喜連川足利氏が嫡流であるとされていたことに、違和感を持った。岸野氏も課題の部分であげているが、喜連川足利氏が嫡流として扱われていく過程がとても気になるところである。おそらく、喜連川家による地位向上のための工作が考えられよう。そこには、他藩が行った藩祖信仰に近しいものが考えられる。藩としてのルーツの再確認の手段として、喜連川家は、関東足利氏の嫡流意識を確立したのではないだろうか。

