12月7日、愛知県産業労働センター(ウインクあいち)にて、織豊期研究会2024年度総会・講演会が開催された。講演会の報告者は小川雄氏で、論題は「毛利氏の海上軍事と大坂本願寺籠城」である。
織田氏と本願寺教団の戦争(石山合戦)は、その最終局面において、安芸毛利氏が大坂の本願寺教団に対し海上支援を行い、その遮断を図ろうとする織田氏との海戦がとくに注目される。戦況が織田方の優勢に傾いてきた影響により、本願寺は天正8年(1580)に織田氏に屈服するかたちで和睦を結び、大坂を退去する。しかし実際には、毛利氏の支援自体は和睦成立まで継続して行われており、本願寺が築いた出城・木津城に終始毛利氏の武将が在番していることが確認される。本報告は、この毛利氏による木津城の在番体制の検証から、本願寺に対する海上支援の実像を解明しようと試みたものになっている。
一般に、毛利氏の海上支援は、天正6年(1578)の第二次木津川海戦の大敗を契機に途絶えたといわれてきた。ドラマや小説などでよく目にするこの通説は、1900年代の研究の時点ですでに批判的検証が行われており(鈴木1997など)、小川氏も以前よりこの海戦が与えた影響が限定的であったことを指摘している(小川2012)など、現在では大坂退去に直結するできごととは評価されていない。鉄甲船や大砲の運用についても、その具体性については明らかでなく、村上水軍の参戦も確認されていない。
毛利氏は、天正5年(1577)以降に木津城に兵力を配置して、本願寺への海上支援を行う。守将には井上氏・粟谷氏・児玉氏など、毛利氏譜代の重臣が配置され、第二次木津川海戦後も毛利氏領国から本願寺までの通信が途絶えていないことが明確化された。
木津城在番体制は、天正7年(1579)頃から悪化し始める。在番にかかる負担に耐えかねた将が、無断で自身の所領に下向してしまうという事態が確認される。これにより、在番体制自体は維持されつつも、戦線は崩壊の一途を辿った。この状況の引き金となったのは、荒木村重の有岡城落城と、それまで毛利氏と共に本願寺を海上支援していた備前宇喜多氏の織田氏への寝返りであった。
小川氏は、毛利方の敗因を、第二次木津川海戦の結果(戦術)ではなく、領国から大坂に至る長大な補給・連絡を長期に渡って展開したことの無理(戦略)に求めるべきであると評価する。協働する反織田方勢力の消滅や宇喜多氏の寝返りにより、織田方による海路の封鎖が進展し、補給が追いつかなくなった本願寺は、織田氏との和睦・大坂退去に追い込まれることになると指摘した。
また、後の小田原征伐時の水軍編成において安国寺恵瓊が起用されていることから、小川氏は毛利氏の大規模な海上軍事行動には、権力中枢に近い人物が起用されていたことを指摘する。今後の検証の課題として意識すべき点であると同時に、他の大名の海上軍事においても同様であるのかも気になるところである。さらなる研究の進展に期待したい。
【参考文献】
小川雄「尾張織田氏の海上軍事と九鬼嘉隆」(同著『徳川権力と海上軍事』岩田書院、2016年、初出2012年)
鈴木眞哉『鉄砲と日本人 「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社、1997年)



