2025年6月21日、浜松アクトシティ研修センターにおいて、静岡県地域史研究会2025年6月西部例会が催された。報告者は氏戸佳香氏で、論題は「那古野今川氏と伊勢今川氏の興亡」である。 

那古野今川氏は、尾張国愛知郡那古野荘(愛知県名古屋市)を本貫とする今川一族である。公家の那古野氏の系譜を受け継ぐ那古野の今川一族のことを、本報告では「那古野今川氏」と、同系の伊勢分流を「伊勢今川氏」と呼称している。また、尾張守護今川氏の後裔一族を「尾張今川氏」と称している。

那古野今川氏は古くから氏豊の存在が周知されていたが、横山住雄氏により氏豊以前にも那古野今川氏が存在していたことが立証された(横山1969)。その後、小和田哲男氏が「那古野」の用字が史料上「那古野」「奈古屋」「名児耶」「名護屋」など多岐に渡って表記されることに着目し、その系譜について検討をおこなった(小和田1992)。つづいて、下村信博氏が那古野今川氏について再検討し、幕府奉公衆今川氏の存在を定義づけている(下村1996)。

今回の氏戸氏による報告は、これらの先行研究を踏まえ、次のような課題を提示し考察をおこなった。

  1. 先行研究では未紹介の那古野今川氏と関連史料や系譜的繋がりを示唆する史料を検討し、概説の見直しと補足を試みる。
  2. 那古野今川氏の没落期にあらわれる「尾之今河氏(尾張今川氏)」について分析。
  3. 伊勢今川氏(今川名越氏)の存在を明らかにし、その立場と系譜的繋がりを考察する。

第一章では那古野氏の概説を示している。那古野今川氏の祖先にあたる那古野氏について、今川国氏の次女が公家の那古野氏に嫁いだことから始まる。この娘の子供たちが今川基氏の養子になったことから、母系に今川氏の流れを汲む那古野今川氏が誕生したとしている。また、三女も内裏で法師を務めていたと考えられる石川氏に嫁いでいる。

さらに、那古野氏と石川氏の本領について検討している。当初、那古野荘は足助氏が地頭職に就いていたが、霜月騒動において安達氏に連座したことで、鎌倉幕府から接収されている。那古野氏の系譜は明らかではないが、那古野今川氏が那古野荘を本貫とすることから、霜月騒動以降、足助氏に代わって那古野一帯に何らかの支配権を持っていたとしいる。

一方、石川氏に関しては、今川貞世が『難太平記』を著した際に、国氏の三女の嫁ぎ先を伊勢国「うか」(三重県いなべ市)という地の領家だった、と記している。しかし、室町前期には東大寺(奈良県奈良市)領であったが、宇賀の領家の存在までは明らかではない。加えて『土佐国蠹簡集残編』は石川氏に嫁いだ三女とは別に、「伊勢国宇賀領家」に嫁いだ四女が存在したと捉えている。

つづいて、那古野今川氏が「御一流」になる過程について検証をおこなっている。那古野今川氏の初代にあたる今川那古野三郎入道が足利直義軍として、建武政権との争いに従軍している。その際の武功の影響が大きく、『難太平記』の記述から範国が御所(足利尊氏)に申し入れ、那古野今川氏が「御一流」になったことが示唆されるとしている。

第二章では、幕府奉公衆今川氏について考察を加えている。その人物は今川下野守とされており、初見は『満済准后日記』の永享5年(1433)条や、『文安年間番帳』に「今川下野守入道」の名が見られる。『幕府奉行人連署奉書』は、永享3年(1431)に、尾張国山田郡で百姓の逃散を伝えている史料に守護代、以下在地領主の名が記されている。その内の一人に「那古野今川左京亮殿代」の存在があり、下野守との関連があるのではないかとしている。さらに、『満済准后日記』によると「今河下野守申入る本訴の事父打死候」とあり、時期的に今川名越三郎(那古野今川氏)の子が下野守と比定している。下野守は、文安年間までに出家し那古野に在国する機会が増えたとしている。

室町時代後期の番帳によると、那古野領主・今川下野守の後継には今川兵部大輔・今川大夫判官国氏・今川小三郎の名がみえる。兵部大輔と国氏(兵部大輔を名乗っていた時期もある)は官途名も一緒であることから、父子関係または同一人物に想定される。那古野今川氏の没落については、今川氏親による遠江侵攻が原因であるとしている。斯波官国の那古野今川領は格好の的となり、斯波氏被官に狙われ没落したのではないかと氏戸氏は考えている。

次に尾張今川氏について検証している。今川仲秋が明徳4年(1393)に尾張守護に任じられ、その甥・今川法珍(直忠)も応永4年(1397)に尾張守護に補されている。そのため、斯波氏が尾張守護になった後も、法珍の系統が僅かに残った。それがわかるものとして「『二言抄』今川了俊和歌所え不審條々奥書」から尾張国丹羽郡に今川弾正少弼方から本を借りるために、連歌師である瑞禅が尾張国へ下向していることが確かめられた。

第三章では那古野今川氏の復興についての考察である。没落した那古野今川氏は駿河へと逃れていたが、遠江騒乱の決着を契機に尾張国に戻っている。遠江国をめぐる斯波氏と今川氏の争いは、氏親が斯波義達の籠もる引馬城(静岡県浜松市)を落として勝利する。義達は剃髪し普済寺(浜松市)に入った。その際に、いくつか条件を設けており、今川家に対して弓を引かない旨を起請文に書かせたうえで、「今川氏豊」を差し添えて尾張国に入国している。義達は隠遁し、織田大和守家の補佐のもと、家督を子の義統に譲った。その後、大永元年(1521)に那古野城が築かれ、左馬助(竹王丸)を移し入れ、斯波氏は清州に押し込めたとされている。この記述は『名古屋合戦記』に記されているが、大永2年(1522)生まれの竹王丸が義達の差し添えとして尾張に入ることは不可能なので、『為広駿州下向記』の記述にある「ナコヤノ新五郎」の事蹟を「氏豊」に仮託して伝えているのではないか、と氏戸氏は述べた。

今川氏豊は『名古屋合戦記』によると織田信秀と連歌を読みあう仲であり、氏豊は柳之丸(那古野城)の一角に信秀のための館を設けて逗留を許したとされる。しかし、信秀は病気を装い家臣団を那古野城へ引き入れ奇襲に及び、那古野今川氏は滅亡したが、氏豊の命は助けられ、京へ逃れたという。

第四章では伊勢今川氏について検証している。伊勢今川氏は前述した石川氏の所在が、伊勢国員弁郡宇賀庄にあったことから始まる。文明5年(1473)に今川名越殿が、知行地である伊勢国鈴鹿郡岩森を長野氏与力の国府氏から横領を受けたとする記述がある。また、応仁の乱時に東軍・細川勝元は奉公衆のなかに西軍に内通する者たちがいるという報告受け、内通者の追放を試みた。しかし、内通者たちは不満をあらわにし、武装したため花の御所は一触即発の状態となった。さらに、山名宗全が内裏に討ち入り天皇と上皇を連れ去るという噂が流れたことにより、花の御所は異様な緊張感が漂う事態となった。『応仁別記』によると名越次郎らが禁中の警固役についている。また、『応仁広記』には「名越次郎」を「今川名越ノ次郎」と記されており、この乱の5年後に前述の横領を受けたとする記述が『親元日記』にみられることから、これらは同一人物に氏戸氏は比定している。このことから、今川名越次郎は伊勢国鈴鹿郡を本貫とする伊勢今川氏であると推定し、また乱で禁裏門役を勤めていることから、幕府外様衆の立場にあったと考えられるという。その後の伊勢今川氏については、『信長公記』に本能寺の変で明智光秀の軍勢に討たれた信長の近習のなかに、「今川孫二(次)郎」の存在が確認される。「次郎」を仮名とすることから伊勢今川氏の特徴が見られることから、この系統が信長に近侍していた可能性を推定している。

以上の検討から、那古野今川氏は地域的・政治的な変遷のなかで独自の存立基盤を模索し続けた一族であったとしている。また、今後の課題として那古野新五郎から竹王丸期における駿河今川宗家との関係性や伊勢今川氏のさらなる系譜的繋がりの解明が求められるとし、本報告を終えた。質疑応答においては、那古野は信秀が奇襲で落としたのではなく、信秀に譲られたとする説もあるという指摘があった。また、会場からは下野守の人物比定について評価を得ていた。今後のさらなる研究の発展に期待したい。

【参考文献】
横山住雄「那古野城の興亡」(『城』50号、東海古城研究会、1969年)
小和田哲男「今川名児耶氏の研究」(『古城』第36号、静岡古城研究会、1992年)
下村信博「中世今川名児耶氏再考」(『名古屋市博物館研究紀要』第19巻、名古屋市博物館、1996年)