去る1月25日、静岡市歴史博物館講座室において、静岡県地域史研究会の一月例会が行われた。報告者は山崎裕太氏で、題目は「今川氏の三河吉田領支配について」であった。なお、山崎氏は第529回戦国史研究会例会でも報告している。本報告の内容ともリンクする部分があるため、併せてご参照いただきたい。
今川氏は三河の守護職・国守職を所持せず、天文15年(1546)より自力で三河支配を遂行していた。山崎氏はこのことから、今川氏の三河支配が戦国期権力論を考えるうえでの試金石となりうるとして、三河の支城領支配について考察した。本報告ではその素材として、吉田領(愛知県豊橋市)を取り上げ、その支配機構像や「領」(戦国大名・国衆が排他的に支配する領域)同士・領国全体との関係から見た吉田領の評価を分析し、今川氏の三河支配において果たした機能・役割の解明をめざすものとなっている。
まず、吉田領の成立過程について、旧戸田氏領であった吉田(今川氏入部以前は今橋と呼称されていた。以下、吉田で統一)の直轄地化していく過程と、その領域の範囲について検討した。天文15年(1546)、牧野保成が今川氏に提出した条目(『戦国遺文今川氏編』〈以下、『戦今』と略記〉806号)内において、今川氏が吉田城と戸田氏旧領をセットで賜りたいという保成の要望を却下したと記されている。山崎氏はこの記述から、今川氏は吉田城を接収する前から吉田城近辺を直轄地化する意向があったとし、侵攻当初から吉田城を拠点として位置づけていたとした。
次に、史料上に見える地名から吉田領の領域を分析した。山崎氏によると、後世の史料からみえる地名と、吉田領の支配機構が造営に関与している神社の棟札から、吉田領の領域はおおよそ現在の豊橋市域であるという。また、吉田領である月ヶ谷が当初今川氏に敵対していた国衆西郷氏の所領であったことから、月ヶ谷が西郷氏所領から吉田領に編成されたとした。この事例から、吉田領の領域は国衆「領」との領域配分をめぐるせめぎあいのなかで確立したと結論づけた。しかし、この吉田領の成立については、「今橋」から「吉田」への地名切り替わりの捉え方に関する疑問も会場から出ていた。この地名切り替わりについては、小林輝久彦氏によって紹介された「常光寺王代記並年代記」に記述がある。この史料によると、天文15年11月24日に今川軍が吉田城を落城させ、そのときから「吉田」と変わったとされている(小林2022)。山田邦明氏によると、この「吉田」という地名は古代以来の地名であり、現在の吉田神社周辺に所在したという(山田2018)。この「吉田」という地域の性格・領域と、「今橋」と同一地域を指すのかという問題は検討していく余地があるだろう。
続いて、第二章において吉田領の支配機構について検討した。吉田城接収後において、今川氏家臣である太原崇孚(雪斎)・山田景隆らが「御奉行」、伊東元実が「城代」として棟札銘に名がみえる。この記述から、城代―奉行―小奉行・代官という機構の存在が提起されていた(久保田1993)。しかし、山崎氏は奉行―小奉行と城代が時期的に併行関係にないことから、弘治・永禄年間までを考慮に加えた時期的変遷を見るべきと提起し、本報告において弘治年間以降の吉田領支配機構について再検討を加えた。
まず、吉田領の「小奉行人」である良知を取り上げた。山崎氏によると、良知は国衆の人質管理や捕虜の処置に従事しており、城代のもとで軍事指揮権を行使する立場であったという。この良知の働きから、山崎氏は吉田領の支配系統は行政だけでなく軍事指揮系統としても機能しており、城代の設置によって「城代―奉行―今川家臣」という構図に移行した可能性を提示した。次に、『言継卿記』弘治2年9月29日条において、吉田城にて城代伊東元実の代わりに言継の使者を応対した「天龍」なる人物について検討を加えた。この「天龍」については従来注目されてこなかった。しかし、山崎氏は城代の留守を預かる立場であることから、「天龍」が重要な役割を帯びている可能性を指摘した。そのうえで、山崎氏は彼を『言継卿記』弘治3年3月11日条に登場する「天慮斎」と同一人物であると比定し、関連史料の精査によって、村松天亮斎という従属国衆への米銭貸し付けなどに関与する現地の有徳人であったと結論づけた。加えて、天亮斎は米銭の貸し付けを通じて支配機構の一翼を担う存在となっており、今川氏の支城領運営は現地に精通した人間を登用する特徴があったことを指摘した。
この村松天亮斎の働きは、同じ有徳人である岩瀬雅楽助が今川氏に従属する国衆に米銭を貸し付けていたケース(『戦今』1584号)と似通っており、三河においては有徳人が自前の経済力によって国衆を支えていたことの傍証と評価できる。また、山田氏によると、三河では地域の武士たちがかなりの経済力を持ち、今川氏に米銭を貸し付けていたという(山田2014)。これに則れば、今回山崎氏が明らかにした村松天亮斎の働きは、吉田城蔵米の維持という面で今川氏の支配機構に貢献していたと評価できるであろう。次に、「吉田奉行人」の活動について検討を加えた。この「吉田奉行人」は従来地域担当の奉行人と評価されてきた(有光1999)。山崎氏によると、その働きは給人の知行関係調整・諸役賦課があり、その働きが永禄年間に限定されることから、今川氏は「吉田奉行人」を現地で機能させることで替地宛行を円滑に機能させたと結論づけた。
続いて、第三章では周辺の支城領との関係検討を通じて、今川領国における吉田領の位置づけについて評価を試みている。山崎氏によると、三河における支城領は、桶狭間合戦以前には在城する武士への在城料捻出源としての機能を備えており、領国「境目」を支える後背地として存在していたという。そして、桶狭間合戦以降は吉田領も「境目」化し、これ以降においては従来備えていた在城料捻出源の役割に加えて、城代や家臣を通じて鵜津山領(静岡県浜松市)・牛久保領(愛知県豊川市)などのほかの支城領と相互連携する関係にもあったと指摘した。加えて、牛久保領が経済機能、吉田領が軍事機能の役割分担があったとする見解(奥田2004)を踏まえて、吉田領が支城領の核となる位置にあったと評価すべきと提言した。
本報告の成果として、従来三河支配の「センター」と評価されていた(大石2020)吉田領の支配について、その具体相に踏み込んで評価づけた点に求められるであろう。加えて、吉田領の支配機構を通時的に検討した点も、先行研究における支配機構像に一石を投じており、筆者も大変勉強になった。とくに、村松天亮斎についての指摘は三河における有徳人の存在形態を見るうえでは重要な見解といえる。また、山崎氏も今後の課題として挙げていたが、田原領・長沢領など、ほかの支城領との比較検討も必要である。その際は、「領」や城郭自体の性格・役割の違いに踏み込んで議論を深めていくことが重要となるであろう。
【参考文献】
有光友學「戦国大名今川氏の権力機構」(同『戦国大名今川氏と葛山氏』吉川弘文館、2013年、初出1999年)
大石泰史『城の政治戦略』(角川選書、2020年)
奥田敏春「東三河の「領」と城郭について」(『愛城研報告』第8号、2004年)
久保田昌希「今川領国三河の政治的特質」(同『戦国大名今川氏と領国支配』吉川弘文館、2005年、初出1993年)
小林輝久彦「駿河今川氏による今橋城及び田原城の落城時期再考」(『大倉山論集』68号、2022年)
平山優『戦国大名と国衆』(角川選書、2018年)
山田邦明『戦国時代の東三河』(あるむ、2014年)
山田邦明「古文書が語る吉田城」(同『中世東海の大名・国衆と地域社会』戎光祥出版、2022年、初出2018年)


