10月19日、オンラインで戦国史研究会の例会が行われた。報告者は小池辰典氏で、論題は「足利義材政権の江州動座と細川政元」である。

細川政元といえば、明応2年(1493)に10代将軍・足利義材を廃して11代将軍・足利義澄を擁立した明応の政変で有名である。この事件は畿内における戦国時代の始まりとして注目を集め、学校教育などでは京兆専制体制を作りあげるきっかけとなった、細川氏による下剋上とも解釈されている。しかし、近年の研究成果をふまえると、こうした解釈は否定されており(小池2024)、戦国期初頭の将軍と細川氏の関係を再検討する必要に迫られている。

こうしたなかで、本報告では、政変前の義材と政元の関係を、六角氏政策を中心に検討している。まず、これまで義材の江州動座(第二次六角氏征伐)は前代の義尚の鈎の陣(第一次六角氏征伐)と連動したものと捉えられてきた。しかし、史料を丹念に追った結果、義尚没後に室町幕府は一度六角氏と宥和政策に転換しており、政策が断絶していることが判明した。義材の江州動座の直接的な原因は比叡山からの訴えによるものである。

また、義尚没後の政元は、六角氏政策で失敗しており、そのために義材は政元を外して江州動座を行ったとしている。従来、明応の政変の背景として畠山氏の問題が注目されてきたが、江州動座における対立も背景として考えるべきであるとされた。

さらに、六角氏政策の失敗は政元の影響力を減退させており、明応の政変は政元が不利な状況で、一発逆転を狙って起こしたものという評価になった。従来は、義材政権の方針に大名が反発しており、政元がその反発に乗るかたちで政変を起こしたとされてきたから、政変の評価が逆転したことは大きな成果であろう。

ただし、本報告の中心となった『大乗院寺社雑事記』の信憑性を疑問視する声もあった。このあたり、今後の研究に期待したいところである。

【参考文献】
小池辰典「実は下剋上ではなかった明応の政変――足利義稙 VS 細川政元」(『歴史研究』第719号、戎光祥出版、2024年)