2月15日、駒澤大学深沢キャンパスにおいて戦国史研究会第532回例会が開催された。報告者は江田郁夫氏で、論題は「秀吉の宇都宮・会津仕置再論」である。なお、本報告は報告者の近著『秀吉の天下統一 奥羽再仕置』(勉誠社、2024年)に深く関わる内容であり、あわせて参照されたい。

天正18年(1590)、羽柴秀吉は小田原合戦で北条氏を滅亡させ天下一統を成し遂げる。その後、関東・奥羽の大名の配置を確定する宇都宮仕置・会津仕置を行った。これらの仕置については、すでに小林清治氏らの研究(小林2003)などによってほぼ解明されている。本報告では、近年の研究動向をふまえて、改めて宇都宮仕置・会津仕置の位置づけを考察するものである。

とくに、報告者が注目するのが織田政権期に整えられた「御座所システム」(千田2021)である。今回の報告では、小田原~会津間を1日約40km移動していることから、「御座所システム」が豊臣政権期にも継承されており、江戸幕府にも継承されていったのではないかとしている。

さらに、行きよりも帰りのほうが急いでいる点や、行きは街道を通っているが帰りは山道を通っている点などから、秀吉はすでに仕置反対一揆が起こることを想定しており、一刻も早く奥羽地域から離れたかったのではないかと報告者は指摘している。また、これに関連することとして、帰路での仕置は1泊で行われており、帰途仕置と呼べるほどの実態はない補足・追加対応にとどまっていると評価している。

個人的に気になったのが、天正18年8月22日付け増田長盛宛て山中長俊書状(『戦国遺文』古河公方編1231号)の解釈である。

この史料の2条目の「国朝様ハ古河にて御礼申させ候、直ニ其地ヘ可有御出由候つる、其分候哉」の部分であるが、従来は「足利国朝様は(8月15日に)古河で(秀吉に)御礼を申させました。すぐに「其地」(喜連川〈栃木県さくら市〉)へ移るという話がありましたが、どうなっていますか?」というような解釈がなされてきた。ここで、「其地」を喜連川に比定しているのはこの直前に「喜連川之儀、大弓 御所様御引渡候哉」とあるからで、指示語は基本的に直前に出てきた同類の単語を表しているというルールに則ったものである。

一方、報告者は当時、増田長盛が宇都宮(栃木県宇都宮市)にいたことをふまえて、「其地」を「話し相手の増田長盛がいる場所」と捉えて宇都宮に比定した。ただし、その場合、15日に秀吉が古河にいた段階で宇都宮への移動が決まっていたはずだが、なぜわざわざ22日にあらためて「直ニ其地ヘ可有御出由候つる」という秀吉の指示を増田長盛に伝えているのか、という疑問も出た。

また、「国朝様ハ古河にて御礼申させ候、直ニ其地ヘ可有御出」自体が22日に秀吉から(長俊を通じて)長盛に対して出された指示であり、これ以降に国朝が古河に行き、その後に喜連川(もしくは宇都宮)に移ったと解釈するべきではないか、という疑問も出された。この意見に対しては、すでに秀吉が駿府(静岡県静岡市)にまで戻っているにもかかわらず、この時期に古河に行って誰に「御礼」するのか、という報告者からの反論があった。個人的には、古河には関東足利氏の嫡流である古河姫君(徳源院殿)がいるから、庶流の国朝が嫡流の古河姫君に対して挨拶しにいくという解釈が可能ではないかと考えている。

なお、この点について阿部能久氏はさらに解釈を進め、この段階で古河姫君と足利国朝の婚姻が決定していたとする(阿部2006)。しかし、これは深読みしすぎているだろう。まったく無関係の男女が挨拶をしていれば、それは婚約とみなすことも可能であるが、古河姫君と足利国朝は将来の夫婦である以前に同族である。そのうえ、戦国時代には古河姫君系の古河公方足利氏(嫡流)と足利国朝系の小弓公方足利氏(庶流)は50年以上対立を続けている。したがって、ここでは対立していた関東足利氏の嫡流と庶流が再び和睦した、という文脈で解釈すれば問題なく、ここで両者の婚姻まで想定する必要はないだろう。

ただし、「国朝様ハ古河にて御礼申させ候」も22日時点での指示内容と捉える場合、その行動は未来に起こるものになるから「御礼申させべく候」などと記されるのが自然である。この点は「直ニ其地ヘ可有御出」の「可」が「有」だけではなく「申させ」にもかかっていると解釈すればいいかもしれない。いずれにせよ、この条文については今後も検討していく必要があるだろう。

【参考文献】
阿部能久『戦国期関東公方の研究』(思文閣、2006年)
小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』(吉川弘文館、2003年)
千田嘉博「中国大返し」(『新説戦乱の日本史』SBクリエイティブ株式会社、2021年)