9月21日、駒澤大学駒沢キャンパスにて戦国史研究会第527回例会が開催された。報告者は千葉篤志氏で、論題は「国立公文書館所蔵飯田家文書にみる織田信雄家臣飯田正家の動向について」である。
近年の研究で、本能寺の変後の一時期に織田信雄が織田家当主となって政権を握っていたことが明らかになっている(柴2018など)。これにともなって、信雄家臣の雑賀少庵・滝川雄利・佐久間信栄などの研究が進んできているが、飯田正家については『織田信長家臣団人名辞典』に記されているのみで、これまで専論はない状況にあった。
ところが、2023年度に国立公文書館に寄贈された「飯田家旧蔵文書」のなかに、飯田正家受給文書が3点含まれていた。以下のとおりである。
①10月13日付け徳川家康書状
②(天正11年)6月11日付け徳川家康書状
③10月5日付け織田常真書状
また、既存史料を含めると、飯田正家関係文書は33点確認されている。本報告では、これらの史料をもとにして、飯田正家の動向を検討したものである。
まず、一次史料には「飯田半兵衛正秀」と記されており、実名が「正秀」であることが判明した。この点は質問時間に質問があったが、報告では「飯田正家」としていたが、「飯田正家」という名は二次史料にしか記されていないために「飯田正秀」と表記してよい、と判断された(なお、本稿では報告者の表記に合わせて、以後も「飯田正家」と表記する)。
また、正家が小牧合戦前後に信雄と家康の仲介をしていたことが判明し、信雄家臣団の中では重臣クラスだったことがうかがわれた。この点、ほかの信雄重臣が秀吉とのつながりを持っていたという先行研究を踏まえて、飯田正家も秀吉とつながっていた可能性はないかという指摘が質問時間にあった。
天正18年(1590)、信雄は秀吉の勘気を被って改易となる。翌年には嫡男の秀雄に家督を譲り、自身は隠居して「常真」と名乗る。本報告によると、信雄の出家にあわせて正家も隠居したとされている。正家の後を継いだのは、飯田正直である。ところが、秀雄は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍につき改易となってしまい、正直も領地を失ったとみられている。
その後、正直は岡山藩主池田輝政に出仕している。このとき、本多忠勝(家康の重臣)が仲介を担っており、忠勝書状によれば、天正年間に正家が信雄―家康間交渉に尽力したことを評価され、息子の正直の出仕に協力したのだと説明されている。これが岡山藩飯田家の始まりである。
近年、精緻な研究が進展して天下人の実像が解明されつつある。しかし、全国政権は天下人1人によって運営されていたわけではなく、側近らによって職掌が分担されていた。そのため、今後は各政権の側近の研究を積み重ねる必要があるだろう。この点、不十分であることを否めないものの、織田政権・豊臣政権の側近の研究はないわけではない。しかし、両政権の間に位置する織田信雄政権については、一時期、信雄が天下人であったという評価を受けているにもかかわらず、やはり前後の政権と比べると影が薄いことは否めない。
けれども、織田信雄政権は、足利義昭政権や羽柴秀頼・徳川家康の「二重公儀」などと同じように、政権の移行という論点では非常に重要な題材と考えられる。先月の報告と今月の報告を踏まえて、織田信雄政権の実像がより解明されることが待ち望まれる。
【参考文献】
柴裕之『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦〈シリーズ・実像に迫る017〉』(戎光祥出版、2018年)

