10月11日(土)に駒澤大学駒沢キャンパスで行われた、戦国史研究会例会第540回例会に参加した。論題は、「藤堂高虎の生涯から垣間見られる諸相 ―黒田孝高父子と関白秀次の事蹟を考察するための一助として― +宮部継潤と関白秀次」で、報告者は諏訪勝則氏であった。以下、その報告をしたい。
タイトルにあるように、内容は藤堂高虎の事績を追うものであった。高虎といえば、主君を7度も変えたことで有名な人物であるが、来年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公、羽柴秀長に仕え、彼の元で軍事や外交のさまざまな活動を行って豊臣政権で台頭していく人物である。その後は、徳川家康に仕えて、江戸幕府黎明期を大きく支えている。家康の遺命にも、「国家に万一のことがあれば高虎を先鋒とし、彦根の井伊を二陣とせよ。堀直寄はその中間に備えて横槍をせよ」という言い伝えが残るくらいに、高虎は信頼を寄せられた人物なのである。なお、報告者の諏訪勝則氏は『図説 藤堂高虎 乱世を駆け抜けた稀代の名将』(戎光祥出版、2025年)の執筆者である。
藤堂高虎に関しては、藤田達生氏を中心に、中世・近世の両サイドからの研究がある(藤田2006など)。しかし、膨大な研究があるにもかかわらず、高虎がどのように豊臣政権や、徳川家康・秀忠・家光政権に影響を与えたのか、実際のところはっきりしていない。それくらいに藤堂高虎に関しては論証すべき事項が山ほどあるということである。事実、今回の発表においても、高虎の事績をすべては追いきれなかった部分がある。
さて、内容は藤堂高虎の前半期を中心に、その出自、天正年間の彼の外交交渉・軍事行動が追いかけられている。基本的に、その一つ一つの事績を、史料を読みながら、概説にとどまるところもある。つまるところ、藤堂高虎研究の諸問題を議論する、ある意味準備段階に至ったということであろう。
ただ、「豊臣兄弟!」に関連してということもあるのか、報告の軸にあったのは、豊臣政権時代における高虎の、羽柴秀長・秀次・黒田官兵衛(孝高)との関係性である。さらには、関ヶ原戦時には東軍の主力であった福島や黒田長政のような人物、徳川方の井伊直政といった人物たちの動きのなかで高虎の動きもまた対比するようなものであったであろう。また、大坂の陣における高虎の軍事・外交活動の動き、元和年間に飛んで徳川和子の入内における朝廷との折衝問題にも触れられていた。
もちろん、これまでの高虎研究においては何度も触れられている事績ではあるが、あらためてそれらを羅列することによって、高虎の「すごさ」、そして各諸将やその後の家康との関係性を主張するものであった。戦国史研究会のなかでも、高虎という人物の名前をよく知る、もしくは何度も聞いたことがあるという方々もおり、しかしその事績をすべては知らないという方々がほとんどであるから、彼の実績に驚いた方が多かったであろう。
しかし、諏訪氏も言及していたように、高虎の事績をすべて追えているわけではない。とくに、筆者も質問時間に指摘させていただいたが、徳川家康のいわゆる大御所政権時代(慶長10年〈1605〉に秀忠が将軍になってから、元和2年〈1616〉に家康が死去するまでの時期)の史料を追うことはかなわなかったのである。この部分に関しては、むしろ近世史側の研究の方が厚いように感じられる。
とくに、筆者も高虎の事績に関してはすこし調べたことがあるが、大御所政権時代については、非常に興味深い話がある。以下、とあるブログの記事の抜粋になる。
「池田輝政と天龍寺の争いを解決した藤堂高虎」
慶長15年(1610年)、足利尊氏 開基の臨済宗 本山天龍寺である事件が起きます。同寺の塔頭で大名 池田輝政(播磨国姫路52万石)の祖母養徳院(織田信長の乳母)が建立した陽春院が、宝泉庵の尤首座(池田家と密接だった)に押領され、天龍寺側が寺社奉行に訴えたのです。つまり陽春院が天龍寺から独力の動きを見せたということで、内実は徳川家康の娘を妻にし、夫婦の息子たちにも別の領地が与えられていた輝政の傲慢でした。寺社奉行は公平に截断し、同じく天龍寺の塔頭だった鹿王院より陽春院に留守役を派遣するよう命令を下しました。しかし尤首座からそれを聞いた輝政が激怒し、京都所司代 板倉勝重や家康側近の高僧 以心崇伝にまで抗議の書状を送りつけます。天龍寺側も黙っておらず、『陽春院は鹿王院末派が開基である』として譲りません。遂に両派は駿府城にいた家康の元にまで赴き裁定を要求します。家康としては娘婿である輝政の要求に応えたかったわけですが、下手に強引に命令してしまえば、徳川幕府が臨済宗全体を敵にまわしてしまう恐れがあります。困った家康は藤堂高虎に泣きつきます。
高虎は若い頃に旧主豊臣秀長が『兄豊臣秀吉と外部との揉め事を調整してきた姿』を何度も見てきましたので、事件による悪影響を最小限に留めることを優先します。鹿王院の留守役の手違いが揉め事の発端だったとし、池田サイドと天龍寺サイドを宥めたのです。つまりどちらの言い分もプライドと意地の張り合いに過ぎず、どちらが正しいともいえない取るに足りないものでしたから、この際鹿王院に涙を飲んでもらうよう高虎が頭を下げたのです。
『何でこんなことまでわしがせにゃあならんのか・・』と高虎は思ったに違いありませんが、徳川譜代の重臣たちの中にはなかなかこの手のことが得意な人材がいなかったのてしょう。こんなに意地を張った池田輝政はこの2年後にあっさりと急病死し、妻(家康娘)と嫡男もすぐに後を追っています。
(引用元:https://ameblo.jp/hidekifukunaga/entry-12841853925.html 2024-02-24 11:24:00更新)
ブログ記事では、この話がどういった文献史料に集成されているかの記載はないが、おそらく大元は『本光国師日記』であろう。実際この話に関しては、このブログ記事が書かれる10年くらい前から、近世史側の論文も存在する(鍋本2001)。論文の要旨は、慶長年間の幕閣たちがこういった諸問題を解決に至らされる調整能力がなく、それが幕府の脆弱性だったと指摘している。しかしその脆弱性を、高虎のような人物がカバーしていた、そのようにして幕府初期の政治が保たれているというものである。
これは明確に、藤堂高虎の事績を追ううえで、彼のすごさを認識させるものであろう。軍事能力もさりながら、彼のすごさにあるのは、その「調整能力」であったであろう。この調整能力を持つかどうかが、その後の「近世の武士」のあるべき姿を示しているのかもしれない。ちなみに、このもめ事を解決する以前、高虎は加藤清正死後の熊本の巡検に向かっていたはずであり、国目付の役割もあったであろうか。というよりは、その役割の「プロトタイプ」であったであろうか。そんな指摘も、近世史側には散見する。
今回の発表内容から逸れてしまうのでこれ以上は控えるが、このように高虎は研究すべき事象が山ほどある。それが、高虎研究のおもしろさであろう。
【参考文献】
藤田達生『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎』(講談社、2006年)
鍋本由徳「慶長期における駿府政権の対大名意識――嵯峨天龍寺塔頭陽春院一件を素材にして」(『戦国史研究』42号、2001年)
