1.高橋論文の構成と内容
天正7年(1579)、徳川家康は嫡子で岡崎城(愛知県岡崎市)主の松平信康を「逆心」を理由に追放、そして幽閉した。同時に、家康は自身の正妻で信康の母であった築山殿も幽閉し、結果的に両者を自害に追い込んだ。この出来事は「信康事件」などと呼称され、事の真相をめぐって議論が重ねられてきた。この事件について、近年、高橋陽介氏によって興味深い新説が提示された。「松平信康はいつどこで亡くなったのか―本多隆成氏よりのご批判を受けて―」(『静岡地域史研究会』第14号、2024年)である。今回は、信康事件の新説の妥当性を検討してみたい。まずは、高橋論文の構成を示す。
はじめに
一 本多論文以降の諸研究
二 本多隆成氏による拙論(高橋説)批判
三 細部に関する疑義にお答えする
四 論旨に関する疑義にお答えする
五 補論・『家忠日記』天正七年六月五日条の欠損部分について
六 むすびにかえて
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はじめにでは、天正7年における信康事件に関する定説の確認と、2023年時点における高橋氏の研究方針と学説提起、それに対する本多隆成氏の批判と本論文の執筆目的を述べている。
一では、本多隆成氏の「松平信康事件について」(『静岡県地域史研究』第7号、2017)発表以降における信康事件の研究動向が丁寧にわかりやすく整理されている。本多氏は信康事件の原因を信康自身の資質と正妻・五徳との不和に求め、信康・築山殿が自害に及んだ理由について「築山殿周辺を中心に、謀反を疑われるような事態があった」と結論づけている。これ以降、桐野作人・黒田基樹・平山優氏らにより信康事件の要因が検討され、上位権力としての織田信長の存在(桐野2023)や、大岡弥四郎事件の余波(黒田2022・平山2023)などがおもな要因として提起された。これらの検討成果を受け、高橋氏は「築山殿は処断されていないこと」「信康は自刃を命じられていないこと」「信康は二俣へ送られていないこと」などの説を述べ、信康事件を「天正七年八月四日、徳川家康が松平信康を岡崎から追放した事件」と定義しなおしたことを紹介した(高橋2023)。
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二・三・四では、高橋2023論文に対する本多隆成氏の批判内容を整理し、その批判へ返答している。最初に、高橋氏は本多氏の批判内容を以下の五点にまとめた。
- 高橋氏は「「武田家への内通」という『松平記』以降の情報は削除されるべきである」とする。しかし、大岡弥四郎事件の検討を抜きにして、武田家への内通はなかったとはいえない。
- 高橋氏は「「音信」とは特別な要件のない挨拶程度のやりとりや贈り物を意味し、築山殿が家忠に「音信」を送ったことなどにより、クーデターを起こすための多数派工作とすることはできない」という。しかし、岡崎城に集められた国衆らが、信康に「内音信」を禁ずる起請文をあげさせられているように、「音信」とは、高橋氏がいうような軽いものばかりではなかった。
- 高橋氏は「「信康は二俣で自刃した」という『三河物語』以降の情報も外すべきだ」とする。しかし、比較的信憑性の高い『当代記』では、その後二俣(静岡県浜松市)に移され、9月15日に生害したとされている。一次史料でないからといって、これを無視することは妥当か。
- 高橋氏は「五徳が天正8年2月20日に美濃へ帰ることになったが、それは堀江(静岡県浜松市)に蟄居していた信康が2月に亡くなったからであり、その死因は不明である」とする。しかし、五徳が織田家へ戻るには織田方とのやりとりや調整の期間が必要で、9月に亡くなって戻るのが翌年2月になったとしても、不自然なことではない。
- 高橋氏は「岡崎城には本多重次が留守居として入ったが、重次は二子於義伊(のちの結城秀康。以下、結城秀康と表記)の傅役であり、信康に変わる後継者は6歳の於義伊であったと考えられる」とする。しかし、於義伊は当初家康から認知されず、小牧・長久手合戦後には秀吉のもとへ人質(養子)として差し出されており、嫡男にするつもりはなかったのではないか。
高橋氏はこれらの批判について、それぞれに回答・反論を行っている。
1について、高橋氏は史料が不足しているため議論の対象にはできないとし、大岡弥四郎事件への信康・築山殿の関与の有無は不明とした。
2について、『家忠日記』天正6年2月4日条における「信康御母さまより音信被成候」の解釈が焦点となっており、高橋氏はこの「音信」を岡崎新城普請の下準備のためと見るべきとし、本多氏の反論には首肯しない姿勢を示している。
3について、高橋氏は信康が二俣に移されたという事柄の根拠史料である『当代記』の記述について、第3子である秀忠が長子信康をさしおいて家督を継承したという事実を正当化するために、信康とその生母・築山殿について否定的な記述をした可能性があると述べた。そのうえで高橋氏は『当代記』の記述は同時代史料の裏付けなしに信用することはできない、とあらためて自身の方針を強調している。加えて、一次史料で確認される信康の動向について、家康が信康を「不覚悟」のため家康が信康を岡崎から大浜へ追放したことと、その後信長の了解のもと家康によって大浜から堀江へ移されたことのみであるとし、あらためて『当代記』の記述に改変があると指摘した。
4について、高橋氏は松平家忠の妹である「ちいは」が夫の東条松平家忠死去から13日後には実家の深溝に戻っていたことを例にあげ、五徳が信康死去から150日後に美濃の織田信忠のもとに帰国していることを不自然としている。そのうえで高橋氏は信康の死去時期について再考を加え、五徳が岐阜へ帰国する前の天正8年1月26日に家康が岡崎を訪れ、しばらく岡崎に滞在していた(『家忠日記』)ことを証左として、信康が死去したのは家康が岡崎を訪れる前日である天正8年1月25日であるとした。
5について、高橋氏は本多氏の説の根拠を『三河後風土記』であるとし、この史料については片山正彦氏が史料的価値を否定していると紹介している。加えて、高橋氏は信康死去後の嫡子を結城秀康であったとする根拠として、天正12年9月8日付け前田利家宛て羽柴秀吉書状と同年9月17日付け脇坂安治宛て羽柴秀吉書状のなかで、秀康が「惣領子」「嫡子」と述べられていることと、同年11月13日付けの書状内で秀康が「家康実子」、天正15年4月時点で「三河侍従」として九州征伐に参陣していることなどから、天正12~15年にかけて秀吉が秀康を家康の嫡子と認識していたと指摘し、秀忠が嫡子となるのは天正15年4月から同17年5月までの間であるとした。以上が本多氏の批判に対する返答内容である。
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五においては、『家忠日記』の欠損部分である天正七年六月五日条について内容比定を試みている。以下、その原文を示す。
【史料】『家忠日記』天正7年6月5日条
五日、家康浜松より信康御□□□の中なをしニ被越候、□□□時□家康御屋敷へ御渡し候て、ふかうそかへり候、
従来、最初の欠損部には「新造様」が入ると比定され、家康は信康と五徳の仲直りを仲介しに来たとされていた(桐野2023など)。しかし、高橋氏は原本の画像からこの欠損部には「信康御母様」、つまり築山殿を指すと比定した。加えて、高橋氏は自身の解釈が正しいとすれば、天正7年6月の時点で信康事件の予兆は見られず、突発的なできごとであった可能性もあると指摘した。
最後に、高橋氏は結びとして、信康が追放された原因を信康は天正8年1月15日、蟄居先の堀江で亡くなり、家康が信康を廃嫡した理由は「信康の資質」によるもの、信康と五徳は不和だったわけではなく、信康が廃嫡されたのは完全に徳川家内部の問題、織田信長は自身の聟が廃嫡されるという不利な条件に寛容をしめし、その後の家康との関係もきわめて良好に保たれたという事柄をあらためて指摘した。加えて、高橋氏は本論における成果によって天正7年以降の織田・徳川の関係性、本能寺の変後の徳川家の動向について、あらたな議論をする土台ができたものと評価している。また、高橋氏は天正7年に築山殿が処断されていなかったならば、その後も岡崎にいたと考えることが妥当であるとし、天正13年4月に家忠とともに石川康輝のもとを訪問した「岡崎御屋敷様」が築山殿であるという可能性を指摘して、本論を閉じている。
2.高橋論文の成果と問題点
この高橋氏の論文は、「信康事件以後も築山殿が生存していた」という結論がこれまでの研究とは一線を画するものであったため、一大センセーショナルを巻き起こした。事実、筆者の周辺でも話題になったことをよく覚えている。
この論文の成果は、信康事件に関する先行研究の到達点と諸論点を再び整理しなおした点に求められるであろう。高橋氏は本論文内で先行研究者の成果を丁寧に紹介しており、諸先学へのリスペクトが感じられた。この点は筆者も見習いたいところである。
しかし、この高橋氏の論には、いくつかの問題点も認められた。これらの問題点についてはすでに本多氏ら諸学が指摘している部分もあるが、本稿でも言及したい。
まず、『当代記』『三河物語』などの二次史料の記述を極力排除するという、高橋氏の方針がはたして妥当であるのかという点がある。先行でも整理したように、高橋氏は同時代史料の情報を優先し、二次史料の情報は同時代史料で裏付けの取れないものは排除するという姿勢で論述している。高橋氏はこれらの二次史料の記述を排除する理由について、改変された可能性があると述べているが、当の論文内では改変されているという論拠を述べていない。たしかに、『当代記』や『三河物語』には史実と乖離している点はある。たとえば『三河物語』は著者の大久保忠教が自身(あるいは徳川家)の正当性を主張するために創作した逸話が含まれているという指摘があり、「松平・徳川中心史観」の代表例とされることもある。しかし、であるからといってそれらの記述をすべて排除するのは極端ではないだろうか。『三河物語』については膨大な研究によって、信康事件の記述が誤りであることがほとんど確定しているといってよい。しかし、『当代記』については、そうした徳川家の正当性を主張したなどとの指摘はこれまでなされていないだけではなく、管見の限りそもそも著者が誰で、なんの目的で書かれたのかすら判明していない。もし改変があると主張するのであれば、これらの点を実証することが必要である。
2点目として、高橋氏が末尾で提起した築山殿が天正13年時点でも生存していたという論について、推論に推論を重ねていないだろうか。そもそも、築山殿が生存していたという論のバックボーンには、先述した『家忠日記』の欠損部を『信康御母様』と推定したことがあるであろう。しかし、この推論の導出方法は原本の画像を参照したのみであり、正直自分の主張したい結論に都合よく史料を解釈しているようにうかがえる。『家忠日記』には何系統か写本が残存しているのだから、それらの記述を比較検討したうえで、欠損部の記述を再考することも必要であろう。加えて、高橋氏が築山殿と比定した「岡崎御屋敷様」について、従来は家康の母である於大の方と比定されている(『岡崎市史 別編』など)。しかし、高橋氏は従来の人物比定が間違っている根拠を述べておらず、自身の推論のみをもととして築山殿であると比定している。この点においても、都合のよい史料解釈をしているとしかいいようがない。
以上、主要な問題点を指摘した。今後は『家忠日記』をはじめとする史料の精査・書誌学的検討と、信康・五徳など主要人物の政治的浮沈を関連付ける作業が必要となってくるだろう。
【参考文献】
『家忠日記』(『増補 続史料大成』19、臨川書店、1979年)
岡崎市役所『岡崎市史 別巻 徳川家康と其周圍』(名著出版、1972年)
片山正彦『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版、2017年)
桐野作人「築山殿と松平信康事件 実像編」(堀新・井上泰至編『家康徹底解読』文学通信、2023年)
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』(平凡社、2022年)
同『徳川家康の最新研究』(朝日新書、2023年)
高橋陽介「松平信康事件の虚像構築過程に関する仮説およびその検証」(『城』234号、2023年)
平山優『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎、2023年)
本多隆成「松平信康事件について」(『静岡県地域史研究』7号、2017年)
同「「松平信康事件再論」・報告概要」(「静岡県地域史研究会報」第250号、2023年)



