1.世界文学とは何か―イーグルトン、クンデラ、大江を敷衍して

文学とは何か。テリー・イーグルトンが『文学とは何か』で示した論を拝借するならば、文学を文学たらしめる本質的な性質は存在せず、ある言説がいかに読まれ評価されるかによってその境界は絶えず引き直される(Eagleton1985)。すなわち世界文学とは、あらかじめ実体として存在するものではなく、価値づけの実践を通じて事後的に立ち現れる範疇であると考えられるのである。

ミラン・クンデラは『小説の技巧』において、小説の歴史を国民文学の集積としてではなく、セルバンテスからカフカへと連なるひとつの超国民的な過程として描き出した(Kundera1990)。これは現代において「世界文学」が示す具体的な内容の定義としてもっとも直感的であろう。すなわち、国や言語を越境するテクストが世界文学である。

大江健三郎は『新しい文学のために』で、この超国民的な文脈を、周縁に位置する自らの文学を相対化し更新するための鏡として捉え直している(大江1988)。本シリーズが「世界文学」と呼ぶのは、こうした国境を越える移動と再評価の運動そのものであり、固定された正典の別名ではない。

2.世界文学を再読することとは何か―新しい文学の理論と古典

再読もまた、既知の結論を確認する行為ではない。クンデラにとって小説とは、人間存在のまだ発見されていない可能性を探る装置であり、読み直すたびに新たな問いが開かれねばならない(Kundera1990)。また、イーグルトンが強調するように、いかなる読みも特定の理論的・イデオロギー的立場から自由ではありえず、読み直しとは新しい批評的枠組みを通じてテクストに別の生を与える営みにほかならない(Eagleton1985)。大江が試みたのも、ウィリアム・ブレイクの預言詩を始めとするきわめて伝統的な海外のテクストを異質な視座を通じて再解釈し、そこから自らの文学を更新することであった(大江1988)。

こうした枠組みは、現代の批評理論においてすでに多様な広がりを見せている。エドワード・サイードに端を発するポストコロニアル批評は、宗主国の文学がいかに植民地的まなざしを内面化してきたかを暴き、周縁からの読み直しを促してきた(W1993)。フェミニズム批評は、家父長制的な語りの構造そのものを問い直し、ジェンダーの視点から古典を再定位してきた(M1979)。クィア理論、エコクリティシズム、そしてポストヒューマン的な読解もまた、それぞれのテクストにこれまで気づかれなかった裂け目を見出しつつある。

しかし、いかなる批評的枠組みも、テクストを最終的に読み尽くすことはできないと考えられる。それはイーグルトンが指摘するように、理論とは特定の関心と盲点をあわせ持つ道具であり、ひとつの枠組みが照らしだすものは、同時に別のものを影に沈めてしまうのである(Eagleton1985)。

したがって再読とは、唯一の正しい読みへと収斂していく作業ではなく、むしろ異なる枠組みを次々と繰り出しながら、テクストの潜在的な多義性そのものに近づこうとする、終わりなき試みである。現代を生きる我々は過去に対する審判者としての宿命を逃れることはできないだろう。

では、すべての時代において歴史は正しい方向へ進んできたのだろうか。我々は真に倫理的につねに進歩し、昨日より今日は正しいのか。もっと積極的に言えば、いずれ未来から裁かれることが宿命であるならば、その裁きから逃れるためにすべての判断を未来に任せてしまえばよいのではないか。しかし、それは実際には最悪の責任逃れに過ぎない。クンデラが指摘するように未来への服従は絶対的な支配者に対する卑劣な服従なのである(Kundera1990)。だからこそ、我々は不完全な道具立てのなかでも未来を待たず、「今ここで」批評をしなければならない。

本シリーズが目指すのも、この意味での再読の実践にほかならない。すなわち、各回1つの批評的枠組みを選び取り、それを通して世界文学の古典を読み直すことで、テクストがなお開いたままにしている可能性を照らし出す試みである。第三章で試みる精神分析批評は、その最初の一例である。

3.『ジキル博士とハイド氏』における精神分析批評の展望

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの父は、厳格な信仰と職業倫理を体現する存在であり、その内面化は『ジキル博士とハイド氏』の読解に視座を与える(Harman2005)。従来の主要な精神分析批評において、ジキルは理性的に自己を調整する自我として理解されてきたが、むしろ彼は肥大化した超自我として捉えられるのではないか。社会的名声や道徳的自己像への過剰な執着は、現実との調停というよりも、内面に刻み込まれた規範による絶えざる監視を思わせる。

また、このときハイドは、単なるイド、すなわち欲動の噴出にとどまらない。彼は抑圧された欲望であると同時に、それを現実世界で遂行する機能を備えている。とりわけ身元を隠すという振る舞いは計画的であり、衝動に従うイドだけでは説明しきれない。むしろそこには、欲望に奉仕するかたちで働く、もうひとつの脆弱な自我が見て取れる。すなわち、超自我と乖離した自我がイドと結びつき、別の主体として振る舞っているのである(Stevenson1886)。

問題は、本来超自我とイドの両者を媒介し、調停すべき自我が、中立的な調停者として機能していない点にある。その結果、内面では規範と欲望が直接に対峙し、人格は統合されることなく分裂へと向かう。一方では畏怖を伴う「父の声」が内面で暴走し、他方では秘匿されるべき強烈な無意識が意識に呼びかけてくる。この構図は、父の価値観と自己の欲望とのあいだで引き裂かれた作家自身の経験とも、深く共鳴しているように思われる(Freud1923)。

 

【参考文献】
Terry Eagleton. Literary Theory: An Introduction. Blackwell, 1983.(邦訳『文学とは何か――現代批評理論への招待』大橋洋一訳、岩波書店、1985年)
Milan Kundera. L'Art du roman. Gallimard, 1986.(邦訳『小説の技巧』金井裕・浅野敏夫訳、法政大学出版局、1990年)
大江健三郎『新しい文学のために』岩波新書、1988年。
Edward W. Said. Orientalism. Pantheon Books, 1978.(邦訳『オリエンタリズム』今沢紀子訳、平凡社、1993年)
Sandra M. Gilbert and Susan Gubar. The Madwoman in the Attic: The Woman Writer and the Nineteenth-Century Literary Imagination. Yale University Press, 1979.
Claire Harman. Robert Louis Stevenson: A Biography. Harper Perennial, 2005.
Robert Louis Stevenson. Strange Case of Dr Jekyll and Mr. Hyde. Longmans, Green & Co., 1886.
Sigmund Freud. The Ego and the Id. W. W. Norton & Company, 1923.