次に、『羽柴家崩壊』にある浅井茶々の事例をあげよう。茶々が慶長6年、33歳の歳、状況としては家康が伏見城に移って2か月後。関ヶ原の戦いから1年を経て、茶々は羽柴家当主秀頼の後見役であるなか、気鬱状態になり、食事ものどを通らず、眩暈もするという。そこで当時の最高級の医者の診療を受ける。

どことなくこの状況に、先の「眠り」に出てきた女性と近しいものを感じる。眠れないという精神状態と、茶々の気鬱というのは症状は違えど、精神的な状況に共通するものはあるだろう。明らかに「眠り」に登場する女性も精神病の症状に近いからだ。だが、その女性は、家父長制の家から逃げることはできたが、茶々は逃げることができない。

もっというと、茶々は「おんな家長」にならざるを得なかったというか、言い換えれば「父」にならなければならなかったのだろうか。

秀吉と茶々が実際にどれほど親密な関係だったかは知る由もなく、「眠り」に登場した夫に言われるような言葉をかけられていたかどうかも実証はできない。しかし、立場的に考えれば秀吉は「父のような夫」である。本当の父の浅井長政は茶々がまだ幼少期に、小谷城陥落で亡くなっている。付け加えれば、その父を殺したのは「父のような夫」であろう秀吉だ。

浅井茶々は豊臣政権奉行である片桐且元にたびたびこの憂いを相談している。秀頼の親代わりとして支えてほしいとも頼んでいる。

これも、『「夫婦」不在社会』にある内容と比較できるところがあると思っている。本書の後半で、夫婦の親密によって起こりうる傷つきについて述べる箇所がある。

その傷つきを公共の場でシェアする場所が必要ではないかと三宅氏は述べるのだが、どこか、これは茶々が且元に相談したことに似ているのではないかと思う。

もちろん、茶々の場合は夫がすでに死去しているのだが、「羽柴家」とはまるで結婚相手のように密接な関係である。そして何より、秀頼の「母」である。だが、「父のような夫」である秀吉はいない。だが、いないからといって、彼が残した政権やイエからは逃れられない。これをどう捉えるか。

そして三宅氏は、なぜそれを公共性にシェアして相談すべきなのかについて、親密な相手に相談すると新しく生まれた親密によってまた傷つくからであると述べる。そう考えたとき、且元の役割、立ち位置はどうであろう。もちろん茶々との仲が悪いということではないが、男女の仲ではない。「私」の仲ではなく、豊臣政権という公の仲での関係だとすれば、それは公共性へのシェアではないだろうか。且元は奉行なのであるから。

このように考えると、どこか、三宅氏が本書で述べる女性と、家父長制、父夫という存在が、史実を取り交ぜて考えることができるような気がしている。

もちろん、作家の考える内容がこれら史実とまったく一緒の状況になるわけではない。ご存じのように片桐且元はその後、政局に巻き込まれて大坂を退去するのである。もっと言えば、現代文学で捉える「公」「イエ」は日本中世末期のそれとはまったく違うのだから、同質にとらえらることの難しさはあろう。「おんな家長」という単語を出したが、それは明らかに現代日本とは違う。

さて、三宅氏が本書をどう結論づけたかは、本記事はあくまで紹介記事でもあるのでこの場で述べないことにする。しかし、最初に述べたように「村上春樹論」であるから、本当の意味でこの問題は、おそらく答えが出てはいないのではないかと思える。

強いて言うなら、なぜ村上春樹の文学に、そのような家父長制、父、夫、そして母子をこのように論じられる要素が散りばめられていたのであろうか。少なくとも現代文学は、それまでの様々な文学の蓄積を経たものであろうし、またそれら文学も、実際に巻き起こった出来事、先述のような浅井茶々をめぐる史実すらも、その材料にしている可能性があろう。筆者は文学の専門家でも女性史の専門家でもないため、これ以上言及はできない。だが、このどことなく直感的に何かを感じるような共通性に、今この記事を執筆する今も、悲痛さを感じずにいられない。こうしたことから、「眠り」に関する三宅氏の考察を読んだときに、率直にこの浅井茶々が思い浮かんだ。

もしそうだとしたら、日本中近世移行期は現代文学から見る女性史に、遠く離れているけれども何か接続ができるのではないだろうか。もちろんそれは日本近世・近代女性史、また近世近代文学の比較も必要であろう。そのように考えるわけだが、だからこそぜひ、三宅香帆氏には浅井茶々を取り扱ってみてほしいと願う。もしかすると、「おんな家長」がその後近世においてどのようになっていったか、江戸時代における女性、奥さん、そして「夫」との関係、「公」という機関的な存在、それが近世近代においてどのような関係性になっていくか、そのあたりが糸口ではなかろうか。だが、浅井茶々という女性そのものを、その史実をあえて文学として捉えなおすというのも、何か面白い気がしてならない。

色々と述べたが最後に、本書で問題提起されていたパートナー、夫婦が現在では不在なのだろうかということには、少しだけ疑問・疑念を持つ。たしかに『「夫婦」不在社会』の述べるように文学や統計などを鑑みると、そのように考えることはできるが、心の中ではそうではないのではなかろうかという気持ちになる。そもそも女性が理想とするパートナーの男性は、現代社会に実在しない、幻想夫(ファンタジック・パートナー)なのだろうか。「公」という存在がどうしても男性を縛り付ける。「公」という巨大なドラゴンを倒すことができたら、「私」を取り戻すことができるであろうか。それが、三宅氏が最後に述べる「ずらす」に相当するのかは今の筆者にはわからないが、この点も自分にとっては考えさせられた。これは浅井茶々の件とは別個の問題として、自分としても考えたいものである。意味深なことを述べたが、本記事を終わりにする。

なお、以下に三宅氏が引用した村上春樹作品タイトルを羅列する。順序は本書掲載順である。

『街とその不確かな壁』新潮社 2023
『ねじまき島クロニクル』新潮社 1994〜95
『風の歌を聴け』講談社 1979
「カンガルー日和」『カンガルー日和』講談社 1986
『羊をめぐる冒険』講談社 1982
「ねじまき島と火曜日の女たち」『パン屋襲撃事件』文藝春秋 1986
『海辺のカフカ』新潮社 2002
『IQ84』新潮社 2009〜2010
『騎士団長殺し』新潮社 2017
「眠り」『TVピープル』文藝春秋 1990
「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文藝春秋 2014
「独立器官」『女のいない男たち』文藝春秋 2014
「木野」『女のいない男たち』文藝春秋 2014

著者の紹介としてこちらも。

三宅香帆氏のnoteにて、豊臣兄弟を取り扱った記事があって、そこに次のような一節がある(三宅2026)。

『豊臣兄弟!』の面白さはいろいろあるのだが、素直に私はこの作品の通低音となっている「兄弟」というテーマが興味深いな、と感じるのである。

……そう、きょうだい! なのだ! 「親子」じゃないのである。

大河ドラマや朝ドラだとやっぱり主軸になりがちなのが「父息子」「父娘」「母娘」「母息子」あたりの関係性になる。父殺しとか母娘の葛藤とか父からの継承とか。だが、面白いのは、『豊臣兄弟!』は父の面影が案外存在しない。豊臣家に至っては最初から不在である。かわりにあるのは、「きょうだい」の物語なのである。面白い~。直と寧々も侍女と姫ではあるが、ちょっと「姉妹」らしく描かれているところがある。意図的だろうたぶん。

たしかに、秀長が死ぬまで、豊臣兄弟!である。しかし、だからこそ、茶々から見た豊臣氏羽柴家を見てほしいとも思ってしまう。

なお、三宅氏はアイドル文化とか推し文化といったものにも著作がある。筆者もそういった文化にはたくさん触れてきた。そのため、本記事にもそういったワードを「散りばめている」。機会があれば、三宅氏のそういった著作の紹介もいずれしたい。

【参考文献】
三宅香帆「『豊臣兄弟!』と「きょうだい」に注目したい2026年」(note、2026年、 https://note.com/nyake/n/n45f327112a46 )