3.「秀吉の名字はやはり「豊臣」だった」説
一般的に、「豊臣秀吉」という表記から上記と同じ見解とみなされているものの、その論証過程が大きく異なるのが、「豊臣」は氏でもあるが名字でもあった、という説である(谷2025)。これは、『寛永諸家系図殿』に「豊臣秀吉」とあって、ルビに「とよとミひでよし」と振られていることから、「豊臣」は名字でもあったとする説である(氏の場合は「とよとミの」となるはず)。
そもそも、秀吉・秀頼の名字が問題になっているのは一次史料で明確に判断できないことが根本的な原因である。その状況に対して、二次史料を持ち出しての議論はあまり生産的ではないのではないか。仮に二次史料を用いるのであれば、「豊臣」を用いている事例と「羽柴」を用いている事例を網羅して、史料批判をしたうえで判断する必要があるだろう。
この点、『太閤記』における「羽柴秀頼」呼称が秀頼を陥れるためのものであるという分析はしているが、それ以外の羽柴表記についても行う必要があるのではないか。たとえば、江戸時代後期に広まった狂歌のなかに「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川」であって、「豊臣がこねし」ではない。また、『絵本太功記』の主人公・真柴久吉はあきらかに羽柴秀吉をもとにしたキャラクターである(江戸時代には天正期の人物を本名で創作することが禁じられていたため、名前を変える必要があった)。
このように、江戸時代には「羽柴秀吉」とする認識も一般的に存在していた。したがって、『寛永諸家系図伝』の表記だけを根拠にするのは危険があるだろう。
おわりに
以上、「豊臣秀吉」と表記する立場の根拠を取り上げて再検討してきたが、すべて根拠としては不十分であることがうかがわれた。しかし、依然として秀吉・秀頼が羽柴名字を使っている事例が確認できないということは変わらない。名字を使わないことが「身分が高いので記載されないだけ」なのか、「そもそも名字が存在しない」のか、という点で立場が分かれることは仕方がないことである(「はじめに」で記したとおり、後者の立場ならば一次史料で名字が記載されていないすべての人物を、氏を使って書くべきではある)。
ただし、名字を記載しないというのは、上記の2つの場合以外に、もう1つのパターンがあることを無視してはならないだろう。すなわち、「書状の発給者と同名字の人物は、名字を記さない」という慣行である。ここで注目されるのが次の【史料】である。
【史料】秀吉朱印状
大納言(羽柴秀長)祈禱抽懇誠之由尤候、弥不可有由断候、仍熨斗鮑三千本、殊巻数到来、悦思食候也、
(天正十八年)
十一月十九日(朱印)
上部越中守(貞永)とのへ
ここで、秀吉は秀長のことを「大納言」と表記している。第1節で確認したように、秀長は羽柴名字を名乗っているので「名字がないから記載されない」という場合には該当しない。また、当時秀吉は関白であり、大納言である秀長より身分的に上位の存在であるから、「身分が高いので名字を記載しない」という場合にも該当しない。
したがって、ここで秀長に名字が記載されていない(「羽柴大納言」という表記にならない)理由は、消去法的に「秀吉と同じ名字だったから名字を記載しない」という場合であることが判明する。つまり、秀吉と秀長は同じ名字だったと判断できる。
秀吉・秀頼が直接、羽柴名字を使用している事例は確認できないが「羽柴名字を使用している人と同じ名字であった」ことを示す史料は存在している。この事実は無視しえないものであり、秀長の名字が羽柴で確定している以上、秀吉も同様であると判断されるであろう。
【参考文献】
谷徹也「豊臣政権研究序説」(同著『豊臣政権の統治構造』名古屋大学出版会、2025年)

