*本稿は先日の文芸フリマ東京38にて頒布した『月報街を歩く#3』の該当記事を再編集したものである。再編集に際して論旨に関わらない話題などをカットするなどしている。
石川
広瀬からこの前の文フリが終わった後に、次の文フリのタイトル、テーマが「モノをして語らしむ」って言われたときにちょっと自分のなかで前から気になったことがあったんだけれど、茶のことなんだよ。
茶の美について。もっと言うと、柳宗悦がだいぶ前から気になっていて。
というのも、自分は銀座の日本美術ギャラリーでアルバイトをしていて、そこで作品研究みたいなことをすることがあって。宗悦の書を扱っていたんで、それで宗悦に関する論文を読んだり、全集を見たりして思ったんだよね。
これまで、民藝館に行ったときなどには民藝の収集か民芸を提唱して復興させた人みたいな認識だったけれども、どちらかというと、民藝がよいと言っている人っていうより、自分の美の信念について語っているだけの人じゃないかなこの人。
要は、ものを紹介した人っていうよりは、その物が美しいかどうかっていうことを突き詰めて考えた人っていう感じ。
とくに晩年の仏教美学などを読んでいてそういう印象を受けたわけよ。
自分としてはかなり読みやすかったんだけれど、宗悦は。
結局、俺は柳宗悦がすごいって話をしたいんじゃなくて、千利休が始めたようにいわれてる「わび・さび」が本当にわからなくて。わび・さびがわかりたくて大学まで来たような感じなのに、結局わからぬまま学部生は終わってしまいそうで。柳はその解き明かす鍵になるのではないかと思ってるんだよね。
広瀬
なるほどね。たしかに柳から考えるっていうのは、1ついい視点だと思うんだよね。
というのは、最近の茶道史研究では、利休の時期、つまり天正年間頃の茶の湯っていうのは「わび」ていたのかっていう問題が、非常にここ30年ぐらい問題提起されているんだよね。
利休の実像っていうのが、少なくとも1990年代までの研究者たちが思っていたほど、はっきりしていないものになってきた。
利休って結局何者だったのかがどんどんわかんなくなってきて、どうもわびとかいったものっていうのも、元禄以降なんじゃないかと。
石川
そんなに時代が下ってしまうんだね。
広瀬
そう。なんでしょう17世紀末から18世紀の初めにかけてかな。利休の100回忌がちょうど元禄期(1688年から1704年まで)にあたる事柄で、その頃ぐらいから利休とはこうだったんだっていう言説がまとめられている。
石川
おもしろいね。利休リバイバルみたいなのが元禄年間にあったってことですね。
広瀬
そういうことなんだよね。そのなかでどうも我々が知る茶道の原型ができてきたといわれてはいるんだよね。
そうなったときに、利休の所持品からわびを考えるっていうのは、実は「わび」を考えるうえでクリティカルではない。
石川
利休が持ってたものから「わび」は考えられないかもしれないってことね。
広瀬
後世の人たちが利休やわびをどう見てきたかを考えるうえでは、利休に立ち返るんじゃなくて、利休をみてきた人々をみなくてはいけないし。
その意味では、柳をみるっていう視点は結構なかなか優れた視点なのではないかと思う。
石川
わび・さびは、利休が考えたというよりは、利休という人物を軸として後年に考えられた。
そういうムーブメントというふうに捉えていると。
広瀬
そうなんだよ。実際、利休の茶についての資料っていうのは、比較的どれも時代が下ってしまうんだよね。これまで我々が利休時代にさかのぼると思っていた資料っていうのが。
石川
それが織豊政権期のものじゃなくて、もう江戸時代ものになっちゃうってことだね。
広瀬
そうなんだよね。実際、今も信じられて、研究に使われている史料ですら、先生によっては疑っていらっしゃる。
現状としては議論があるものだっていうのは確かなところかな。
石川
だから、それこそ柳宗悦が生きていた時代に創造されていた利休のイメージだったり、利休のキャラクター、利休がこういう人物だった、こういうことは残してたはずっていうものが、今現代はすごく揺らいでる、と。
広瀬
そうなんだよね。そういう意味では、我々は利休のわび・さびを考えるっていうのは非常に難しい。
石川
ということは、今後の研究において、やはり「わび・さび」と利休は別に考えていく必要があるってことよね。利休という人物が今揺らいでる以上、利休を通したうえでのわびさびっていうものはソリッドなものじゃないと。
広瀬
そういうことになるだろうね。
利休という人物を現在の残っている史料から再考するっていう側面と、わび・さびっていうものは何なのかっていうことは、別に考えなくてはいけないと。
この視点は近年、割と重視されつつある視点で、まだ元禄期の茶の研究はそこまで進んでる印象はないけれど、最近、近代茶の研究っていうのが非常に盛んになってきていているから。
石川
近代茶の湯っていうのは、一体いつ頃からの茶の湯を差すんですか。
広瀬
これは明治維新があって、武家に成立基盤を置いてた茶の湯が幕府と一緒に崩れてしまうわけだ。
そのときに、これまで武家の儀礼家として生きてきた茶人たちっていうのは仕事がなくなって没落していく一方で、町人の方に比較的基盤を持っていた流派っていうのが細々と生き残っていくんだけれど、それが一気に変わっていく時期っていうのが出てくる。
それは何かっていったら、岡倉天心なんだよね。天心らの活動によって、日本美術が再び見返されていくようになるでしょう。
その流れのなかで、茶の湯っていうのが1つの価値基準としても、財界のなかに取り込まれていく。
石川
なるほどね。日本らしさ、日本文化らしさみたいなものの最たる例として、1つの事例として取り入れられたと。
広瀬
だからこそ財界人で茶人ってのが、大体明治の終わりから大正ぐらいにかけて非常に多いんだよ。
石川
原三渓とかだよね。
広瀬
まさに原三渓なんかその代表だよね。あと外せないのが益田鈍翁。
石川
あー、三井財閥の益田孝ね。
広瀬
お茶に関係することをしている人だったら多分聞いたことあると思う。近代茶人としてはかなり有名だよね。でも実際、仕事としてはまさに財界人だよね。
こういう財界のなかでの日本美術保護っていうのと、茶の文化っていうのが、密接に関わってた時期っていうのは、とくに近代茶の湯として取り上げられている。
というのは、彼らの集めたものとか考えたことってのが、現代の美術館とかに直結してくるわけだから。この研究っていうのは、最近少しずつ増えてきている。
石川
じゃあ、まさしくその近代茶人の流れのなかに、柳宗悦もいるわけだな。
広瀬
そのなかに位置づけて考えるっていうのが、歴史学的には適切なのかな。
石川
そうか。そういわれてみると、自分のなかでやはり抜けてる人物として今考えられるのは、岡倉天心だな。
広瀬
天心ね、『茶の本』から始まる。実際、『茶の本』って、もちろん当時の茶についての見方だし、非常に一面的なものになってしまう。
けれども、当時の思想を理解するうえでは重要な文献にはなってくるよね。明治末期の一番主流の思想っていうのは何だったのかって理解の助けにはなると。
石川
そうか。岡倉天心自体は利休に言及してたりはするのかな。
広瀬
『茶の本』って、茶経から始まって茶の歴史を解き明かしていくっていう中で天心も確か、そのあたりについては述べていた。
ちょっと天心の場合は手元に資料がパッと取り出せないから、あまりはっきりしたこと言えないんだけど。
石川
ちょっと話は戻ってしまうんだけど、利休の話をちゃんともう一度考えようと思ったきっかけとしては今年の初めかな。1月ぐらいに、勅使河原宏『利休』(三國連太郎・山﨑努、松竹、1989年)という映画を見たんですよ。
これはなかなかおもしろい映画だったんだけど、脚本が赤瀬川原平。いわずと知れた有名美術家で、彼が脚本やってる利休は自分のなかでは結構想像してた利休イメージに近いっていうか、ステレオタイプではあるんだけど、尖っていて、美を追求する人間としてこういうことほんとうに言ってそうだなって思うような描写があって。
その発言みたいなものが晩年の仏教美学について考えてた柳宗悦とちょっと似てて、赤瀬川原平が見てたのかどうかわかんないけれど、気になったんだよね。
広瀬
赤瀬川はその映画について、『千利休─無言の前衛』(岩波書店、1990年)で言及しているね。
これをずっと見ていくと感じられるのが、赤瀬川原平が持ってたイメージっていうのは、きっと天正のというか、桃山のアバンギャルド(第一次世界大戦頃から、フランスなどで起こった芸術運動)としての利休像っていうのが、一つあげられるのかなとは思うんだよね。
石川
それはやっぱり赤瀬川自身がアバンギャルドの自認があるからってことかな。
広瀬
赤瀬川自身はアバンギャルディストなのかというと難しいところかなとは思うけれども、赤瀬川は利休っていう人をそのように考えていたのではなかろうかという気はする。
であると同時に、単に新しいだけじゃなくて、赤瀬川がとくに1990年代前後から考え出していた、自分のなかに感じられる美感みたいなものっていうのと、何か利休の美観というものの間に非常に親近感を覚えていたんだろうなっていう描写は、新書を読んでて感じるところかな。
赤瀬川の作品っていうのは非常に変化が激しくて、時期によってまったくその様相を異にするけれど1990年代いや、ちょい前の1989年ぐらいから、赤瀬川のなかで路上観察っていう街そのものに対する興味が変化していく。トマソンとかっていうのは、そこにあるもののことを見るんだよね。
なのだけれども、赤瀬川はものを見ている自分っていうのに、興味がだんだん出てきたんじゃなかろうかっていうふうに思ってる。
石川
ものを見ている自分に対する興味か。ちょっとコギトエルゴスム、みたいなってことかな。
広瀬
赤瀬川のなかで、ものの見方っていうのが、固定化してはおもしろくないという前提がどうも最初からあったようで。その結果として、トマソンっていうのは、赤瀬川にとって窮屈になってしまう。
だって、トマソンは路上観察学の一部門として、きっちりきっちりと学問のパロディとして分類を施していく。最終的には、それが作業化しちゃうんだよね。
石川
なるほどね、完全に世界にはめ込まれちゃうわけだから、対象は無機質っぽくなっちゃう。分類する自分ってなんだろうの方がおもしろくなったわけだ。
広瀬
この作業になった状態って、別に学問をしている人間にとっては、分類すること自体が楽しいじゃん。
石川
分類好きな人が学者やっているというイメージだけど。
広瀬
赤瀬川原平はそうじゃないわけだな。だから、赤瀬川のなかでは、それが分類という単なる作業に陥ってしまうといけなかった。
やっぱりそこで、赤瀬川は自分がものを見つめる視線、自分の眼のあり方っていうのを考えるようになり出していた。
この頃と勅使河原監督から脚本の依頼を受けた時期っていうのが、ほとんど同時期であったっていうのは、赤瀬川を考える上でも注目できることだね。
石川
なるほどね。道理で映画の中の利休が、積極的に自分が作った作法を神格化している武家社会に対して、自分で自ら枠から外れる行動を取っていくみたいな描写があるっていうのは、かなり赤瀬川自身の心情変化じゃないけどもそれが入ってるのかなとは思うよ。それを聞くと。
広瀬
同時に、利休が桃山の前衛みたいなものとして扱われるようになる流れっていうのは、近代茶の湯のなかで作られてきたイメージってのも重視するべきだね。
石川
そういう意味で言うと、権威の象徴というか、最保守でありながら、最前鋭でもあるっていう二つの性格みたいなものを、1980年代後半の利休像っていうのは背負わされてるわけだよね。
映画のなかでも示唆的だなって思ったのが、ちょうど秀吉の黄金の茶室を作るシーンがあるんだけど、これに対して、弟子の山上宗二とかがぶち切れる。これを見て、あんな下品なものをって、お師匠様はなぜあんなものを許すんだみたいな感じ。
問い詰めるシーンで、三國連太郎さんが演じる利休が、あれはあれで良いのだ、とても美しかった、と恍惚とした表情で言うところは、すごいなんかその二つを象徴してるような気がするね。イメージとしては。そういうのって一番わびから離れるような気はするけど。
黄金の茶室が、現代的にいうと秀吉の醜さの象徴、俗世的な考え方の象徴であり、利休が大成したといわれている質素ですごく狭い茶室が日本的な美の象徴であるとていうのが、今でも一般的な考え方ではあるわけじゃん。
それに対して、自分が思った利休像っていうのは、映画のなかで赤瀬川原平が示してたような感じの二面性を持ってる男なんだよね。飛躍するけどこれは柳宗悦が晩年に研究してた「不二の美」って概念に通じるなと思うんだよね。
2つとないという意味だけど、ある程度まで執練をした、考えられたものの世界には、汚いものは汚いなりに良くて美しく、拙いものは拙いなりに美しく、視点を固定すれば巧拙はあれど感性に従えばどちらにしても一つの美であるっていう考え方になってる。二項対立の世界を脱出するっていうのが、宗悦の仏教美学の最後の、大きな、中心思想だと思うんだけどこれがもしかしたら「わび」なのかなって俺は考えたわけよね。
広瀬
なるほどな。おもしろいなと思うのは、「和漢の境を紛らかす」っていうのがそれに近い言葉としてあげられるんだけれど。
これはほとんど伝説的な人物といっていい、存在くらいしか確認されてなくて詳しい人生がわからない、かつて村田珠光と呼ばれていた侘茶の祖とされる人物の、ものとされる言葉なんだけど。彼が書いたとされる書状に和漢の境を紛らすって言葉があって、かつてはこれを単なる和物礼賛と捉えられていたんだけどね。
石川
唐物(中国や朝鮮からの伝来品)重視の価値観のなかで、珠光は和物(国産の陶器)を重視したのではないかと。
広瀬
そう。だけど近年はそうではなくて、逆に言うと不二の美に近いような、和物と唐物を区別しないということ、あるいは、もっと仏教的なものから書かれた言葉だという考え方に解釈が変わってきている。
石川
茶の湯の成立よりも前に禅だったり仏教的な考え方はあったわけだから、その始まりはより仏教的なものに近かったということも考えられると。
広瀬
ある意味ではそうだね。
石川
慶長年間や、元禄年間の茶の湯のブーム、あるいは近代に入って、いわゆる武家の嗜みとしての茶が衰退して、町人の楽しみの茶が明治の文化人たちの嗜みになっていく。この流れのなかで、どんどん仏教から離れて茶という崇高な1つの思想体系として喧伝されていったわけだけど、そのなかで柳だけが再び仏教に帰っていけたのかもしれないな。
広瀬
その考え方はおもしろいと思うな。
石川
村田珠光がどういう人間だったのかというのを考えていくとおもしろそうだな。
広瀬
そう。彼もね、難しいんだよね。実際いたかどうかすらほとんどはっきりはしてない。どうもそういう名前の人物が当時いたのは確かなんだよ。けれども、それ以上わかんないからね。
石川
ウィトルウィウスのようなものになってしまってるってことだよね。ルネサンス期に建築の祖として崇められたけど写本しかないしその信憑性は怪しい。確かにアウグストゥス帝時代にいたようだけれどどこまで建築をしてたかは不明。
広瀬
まさしくそんな感じ。珠光と呼ばれている僧が、当時奈良から京都を転々としていたっていうのは確かで、これはいろいろな文献に出てくる。当時の同時代の貴族の日記とかにね。
でも、その人が茶をやっていたかどうかはよくわからない。珠光と茶のつながりっていうのを示す史料は、どれも後の時代の写しなんだよね。
石川
茶の始祖のような伝説的な僧がいましたよっていう伝聞じゃないけど、そういう史料ばかりってことになるわけだ。
広瀬
だから、もし彼がほんとうにある程度茶の湯に対して大きな役割を果たした人物だったと仮定するなら、一つおもしろいことだろうと思うのは、彼の生まれが浄土宗ってところかな。
父親が浄土宗の僧だったらしい。でも、それが大人になって一休宗純の宿坊である大徳寺真珠庵に入って、一休の何回忌とかのときにお金を出してる。どうも一休関係の人物たちのなかに入っていた人物ということは確からしいんだよね。
石川
浄土宗の僧侶が臨済宗の中枢に入っていくのは、かなり珍しいことなんじゃない?
広瀬
どうなんだろうな。実際、当時の仏教とか仏教教団っていうものは、我々が思っているよりもフレキシブルというか。
石川
そんなに派閥対立みたいなのなかったってことか。
広瀬
どちらも同じ世俗的には領主なわけよ。
石川
なるほどね。寺院はどこも中世的な封建領主ではあると。
広瀬
どちらも封建領主の一種たる寺家で、自分たちの土地や利権を持っていて、そこに対しての侵害をされなかったらそこまで厳密にはならないように見える。
我々がイメージしているよりも、もっと幅の広いものでそんなに厳しいイメージじゃないと。だって、当時の禅宗の僧って、みんな禅の仏教から道教も儒教も全部知ってる、いわば中国学研究者みたいな人間だから。
石川
大学みたいなものだよね。
広瀬
そんな人たちが禅だけで話をするかって言ったら、別にそうではない。となると、我々はそういう儒教・仏教・道教の考え方、それに当時だったら成立しつつあった吉田神道とか、そういったものも含めた混ざったものっていうのが茶の湯の根底にあったのかもしれないと考ええたいよね。
そして長い間我々が「わび」と呼んできたものは何かっていうのを考えようとした時には、元禄期に利休の100回忌を最も推進した人物が誰だったかっていうところが出発点になってくる。
石川
それは誰なんですか。
広瀬
これは大徳寺だったんだよ。
石川
繋がってきましたね。
広瀬
利休の菩提寺である大徳寺、その僧侶たちが非常に茶に関する文献を当時残してる。『南方録』って聞いたことあるかな。
石川
有名な、いわゆる偽書ですね。
広瀬
利休についての書籍としてかつてはよく知られ、今では元禄期に書かれた偽書ということがほとんどはっきりしたものだけれど、この『南方録』を記した立花実山が、どうも大徳寺周囲のそういう文化サークルの人間だったらしいっていうことも知られてきている。
わび・さびとかっていうものと禅ていうのが強く結びついていく根底には、元禄の大徳寺っていう場が非常に意味があったんだろうし、多分それ以来「わび」と呼んできたもの
っていうのは、当時の、江戸時代前期の禅宗の思想みたいなものと合わせて考えてあげると効果的なんだろうね。
石川
なるほど、利休100回忌の時の大徳寺を中心とする文化的サークルによるまとめ方が上手かったということか。それによって今日我々が考えている「わび」っていうものができたかもしれないってことだね。面白い。
わび茶を創始した村田珠光とか利休とか、すべてのキャラクター、歴史上の人物っていうのが皆大徳寺に集まってるっていうのは、これは偶然ではなくて、そもそもこの歴史っていうものを、大徳寺が主導して考えたものと考えることができる、と。
広瀬
別に、大徳寺以外のお寺もお茶はやってるわけで、ただうまいことを、自分のところで埋葬されている大成してた人物っていうものを使って盛り上げたんだろうね。
石川
侘茶を体系化したのは大徳寺なのかもしれない。
広瀬
そういう側面は結構往々にしてあったのかなっていうところかな。
石川
じゃあこの元禄期の大徳寺と、柳宗悦晩年の仏教美学、昭和の仏教美学っていうものがどう結びつくかっていうのを今後考えていきたいな。
広瀬
近代茶人がその大徳寺から作られて、千家とかそういういわゆる京都の人間たちによって形作られてきた茶についての考えっていうものを、彼らがどう受け取ったのかっていうのも一つポイントだよね。
石川
なんで近代は、柳は、利休を受け入れたのか、選んだのかってことよね。
広瀬
どうも一番有名だったからって感じではなさそうだよね。
石川
やっぱ鍵となるのは民藝なのかな。宗悦の「茶の美」では楽茶碗が痛切に批判をされてるわけなんだよな。かなり嫌いだったようで。でも、それとは別に利休に関してかなり注目はしていると。
広瀬
柳の言葉をみると小堀遠州を随分嫌っているみたいで、はっきりどこが嫌か言っているわけではないけど、やっぱり権威の茶としての遠州というのに白樺派の一員として柳はなんか思うところがあったんじゃなかろうかと。
そういうなかで政財界の重鎮の称揚する利休や遠州をどう見ていたんだろうね。
石川
近代茶に対してどう思ってたかってことか。そこがなんか彼が民藝を起こしているところとも繋がりそうだよな。
日本中の知られざる美を発掘しようっていうよりも、近代日本美術のカウンターとしての民藝っていう側面が強い。今日言われている民藝の発見者っていうイメージよりも美に対する闘争を持ちかけた男っていうイメージの方がしっくりくる気がする。
広瀬
たしかにそれはなんかすごいわかる。だからこそ赤瀬川の言ってることとも似てくるというか、並行するところが出てくるわけだよね。並走してるって感じかな。
石川
当時の柳がいた頃の大茶人といえばやっぱり益田孝か。三井財閥の中枢にいた人物だし。
広瀬
他にも当時の茶人っていうと、いろんな人がいるんだけど、たとえば大日本茶道学会が当時ちょうど設立された頃で、その人たちもまずそもそも近代茶道っていうのは形骸化した家元茶道への批判として出発してるんだよね。
石川
だからこそ彼らは利休を信奉するわけか。
広瀬
家元たちが言っているご先祖様じゃなくて、我々の参照すべき正典としてのというか。
石川
原点回帰みたいなものだと言いたいって感じだよね。
広瀬
でもそれに対して、さらに批判が折り重なっていくというか、そういうところが結構なんか注目できるのかなっていう気はするんだよね。
石川
まとめていくと柳宗悦も、赤瀬川原平も桃山のアバンギャルドとして千利休のことを考えたと、それは、明治以降、昭和の時代の茶道界で考えられている利休像に対する反発もあったし、それに反発している自分たちの美意識、美に対する考え方っていうものを、重ねてる節はあるっていうのがポイントかな。それを踏まえた上で茶道の歴史っていうのを考えると、だいぶ大徳寺っていうのが重要なキーワードだよな。
利休を我々がどう見てきたかの歴史だと思うし、利休っていう人間の存在事実が、読み解かれていった結果の物語が、「わび」の体系になったって感じだよね。
つまり、利休解釈。そのようにいえるとして、ここで物に立ち返ると何の作品をみないといけないかってことだよね。どんなものを作ってきたのか、我々の知る茶道史は。
広瀬
そして柳は何を集めたのかっていうのも、並べて考えていくべきなんだろう。
石川
何か心当たりはある?
広瀬
いま一つ思ったのは。利休の名物の中に高麗茶碗って呼ばれる一群があるじゃないですか。高麗茶碗、とくに井戸茶碗や三島茶碗とかいったものって、いわゆる唐物(中国製の茶器)とは違うもので。
これらは朝鮮半島では当初は日用品・雑器として使われたものだよね。そこに美を見出したっていうのをどのように利休以降の人たちは読み解いていったのか、を考えたいかも。
石川
たしかにそれはすごくいいな、宗悦の仏教美学の最後にあげられている例は、やっぱり朝鮮雑器の刷毛目の話なんだよね。これが綺麗に引かれているか、あるいは曲がっているかっていうことに対する美醜の判断について語っているから。
広瀬
柳が東洋美術に入っていくきっかけは李朝白磁であったわけだし、柳が民藝としての活動を開始するのって、やっぱり朝鮮の器なんだよね。いわゆる浅川兄弟の兄の方の伯教が朝鮮半島で当時、彫刻の教師をしていて、朝鮮で入選したわけだね。
石川
彫刻家の浅川伯教は新海竹太郎の内弟子だね。
広瀬
そうそう、浅川が新海武太郎のもとに弟子入りしていくなかで、朝鮮美術研究をしていた伯教は李朝白磁を持って柳のもとを訪れたのよ。
柳に「ロダン見せてください! これあげますから!」みたいな。そこで交換が行われたわけだね。それが柳と李朝白磁の出会いだし、当時の文学・彫刻界の人脈の繋がりも見えてくる。
石川
朝鮮半島の陶磁器っていうのが結構日本の陶器よりもずっと多分「わび」に近い、と
広瀬
彼らのわびを考えるうえではいいんじゃないかな。
石川
じゃあ、次回は民藝館出張編ということで。
広瀬
行きますか。





