妙喜庵茶室研究史

妙喜庵茶室待庵は京都府大山崎町大山崎にある国宝指定の茶室である。天正期に利休によって造営されたとの由緒で知られ、重要文化財に指定されている室町期の書院と合わせて中世後期の禅院建築を知る重要な遺構とされる。

しかしながら、この茶室についてその来歴を明らかにする資料は見つかっていない。ほんとうに利休によって作られたのか、そもそも天正期に作られたものか。これらのことが判然としないままに天正期の利休作茶室として喧伝されている。

妙喜庵茶室についての本格的な研究は1940年に発表された堀口捨巳の「妙喜庵の利休茶室待庵」に始まる。この論考で堀口は従来言われていた由緒を否定し、山崎利休屋敷に造営された茶室を利休没後に移築したものと推定した。堀口は「宝積寺絵図」を慶長11年の図であると認め、慶長年間にすでに妙喜庵茶室・宝積寺茶室が存在したとする。天正年間の利休による山崎茶会を宝積寺茶室におけるものとし、妙喜庵で天正後期に茶会が行われた記事がないことから当時は存在せず、慶長11年までに建造されたものとした。

そして、江戸中期の茶書『茶学聞覚事写』に見える「妙喜庵利休滅亡後スキヤくづしをく。立ル 又笠原宗吻立ル」という記事の内容を山崎利休屋敷に営まれていた茶室が利休没後に崩され、慶長11年までに妙喜庵において再建されたと推定したのである。中村昌生もこの説に従い、『日本建築史基礎資料集成』の記事を執筆したのであった。

これが定説となっていたが、古くから批判も多い。宮上茂隆は利休好二畳茶室を本歌として千少庵が製作したものであろうと述べている。川上貢なども寛永期を大きく下るものではないだろうとしている。

伊藤平左エ門の議論も見逃せない。1990年に発表された「利休茶室の復元」において、平左エ門は『数寄屋工法集』中巻に見える「利休囲之事」に見える記述に注目する。永井尚政が寛永後期に淀城(京都府京都市)に妙喜庵茶室の写しを持っていたことは、『旁求茶会記』の「伊丹屋宗不筆記」部分、正月25日条によって知られている。『数寄屋工法集』は貞享3年に刊行された、永井尚政家臣と推定される伊藤景治の著作である。永井尚政のもとで作事に関与したという伊藤景治の記録は淀城の妙喜庵茶室写を製作する際の記録であろうとして、この記録を寛永期の妙喜庵茶室を知るための一級の史料であると位置づける。そして、平左エ門はここに記された寸法を書き起こした結果、それが現存する妙喜庵茶室の実測値とかなり違いがあるとした。

1994年に原田三寿が「宝積寺絵図考」も重要である。この論考において原田は「宝積寺絵図」の景観年代が元禄期のものであると示した。この絵図は堀口の論考の中で論拠のひとつとなっていた。

現時点で妙喜庵茶室について最新の論考は2017年に発表された中村利則の「国宝茶室待庵について」である。この論考は短く、論拠となる書状を明示しないなどの問題はあるが、山崎利休屋敷から移転されたものとする説を利休書状から疑問が生ずるとし、山崎城に建造された茶室が秀吉の大坂移転に伴い破却され、その古材から慶長3年過ぎに妙喜庵功叔によって新たに建造されたものと唱えた。重ねて、『山上宗二記』に記録されている「関白様御座敷」が従来言われている大坂城山里二畳ではなく、山崎城茶室であったとした。

このように待庵の建造についてはいくつもの問題が提起される。

まず現存待庵はいつ建造されたものだろうか。伊藤平左エ門の述べる通り、17世紀後半に存在した妙喜庵茶室は現存待庵と別個のものであるのか。それとも中村利則の述べるように慶長年間には建造されたものであっただろうか。

次に、現存待庵は利休作茶室の面影をどこまでとどめているだろうか。伊藤平左エ門の述べたように寛永後期の状態からも変化しているのか、それとも中村利則の述べるように天正期の山崎利休茶室とは異なるが慶長年間以降は基本的に同じであるのか。

妙喜庵茶室の特徴

妙喜庵茶室は丸太柱に土壁、二畳隅炉で下地窓と連子窓という構成であるが、細部において齟齬のあることが知られている。

伊藤ていじは『国華』に載せた文章のなかで、この茶室が畳の寸法(畳割)を基準として建てられていないことを伝えている。待庵は柱間寸法を基準として計算された。これは待庵の他には西芳寺湘南亭・名古屋城猿面茶室などで見られるものだという。江戸中期の茶書『南方録』などでは畳割を前提に茶室設計について記述することから、それなりに古い時期の特徴であろうとする。

中村利則は床・炉に注目する。妙喜庵茶室は4尺の室床を備えるが、天正期は5尺床から4尺床への過渡期にあたり、5尺床や4尺5間床が中心であった。天正期のものが残っているとすると少し時期に齟齬が生じる。妙喜庵茶室の炉は1尺3寸4分角である。室町期には半畳ほどあった炉が次第に縮小していき紹鷗のころまでには1尺4寸の炉が一般化していたとされることからするといささか小さすぎる。中村利則はこれらの事柄から山崎城に建造された利休茶室が解体され、妙喜庵に再建される過程である部分では変更され、ある部分では元通りにされたのだろうとしている。

いずれにせよ妙喜庵茶室の特色である柱間寸法に基づく全体構成、4尺の室床、1尺3寸4分角の炉はその年代観を明らかにするうえで重要であるとともに、それが齟齬を生じるという指摘も妙喜庵茶室の再建説の論拠として重要なものである。

妙喜庵茶室の作年に関連する史料

『旁求茶会記』の「伊丹屋宗不筆記」部分に見える正月25日の永井尚政淀城茶会は妙喜庵に利休好の茶室が存在したと伝える記録の中でもかなり古い。この記録が事実であれば寛永後期に妙喜庵に利休好茶室が存在し、その写しが淀城に営まれたことになる。しかし、『旁求茶会記』はその伝来がはっきりしていないうえ、「伊丹屋宗不筆記」は『旁求茶会記』以外にその写しが確認されていないことに留意が必要である。

この淀城にあった妙喜庵茶室写については前述のとおり、伊藤平左エ門が『数寄屋工法集』に見える「山崎利休好茶室」を示すものであると推定した。『数寄屋工法集』は貞享3年の刊本であり、茶室指図の記録として17世紀後半の様態を伝える重要な記録であることは相違ない。本記録が伊藤平左エ門の述べる通り寛永期にさかのぼりうるものか否かは『旁求茶会記』の詳細な検討を待つべきであろう。

また、前田家に関連する記録『三壺聞書』のなかに「葭嶋御数寄屋の事」と題した記事が確認される。この記事の内では承応元年に前田利常の命で大工が山崎の遠州作茶室、南都の利休作茶室の記録を行い、翌2年に「山崎松屋源三郎数寄屋と遠州座敷」が造営されたとある。中村昌生は『集成』においてこの記事が山崎の利休好茶室と南都の遠州好み座敷を小松城に写した記録であるとし、山崎利休好茶室が妙喜庵茶室を指すものとした。

この記事に関連しうるものとして『茶湯秘抄』の記事がある。「一、加州肥前守様御小座敷四畳半右勝手、久政ノ御写」と「山崎妙喜庵利休二畳敷好指図シテ造賜座敷御写」という記述が並び、大黒亭と妙喜庵茶室の2つの指図が乗せられた。これについて大黒亭が久政写しの利常茶室であり妙喜庵茶室はそれと異なるものととるか、一体の記述とみなし前田利常茶室が妙喜庵茶室の写しであり久政による記録があったととるか、2つの理解ができよう。『集成』において中村昌生は後者としている。なお、ここに見える妙喜庵茶室の指図は現存待庵と大部分において共通する。

いずれにしても『茶湯秘抄』は元文年間まで時代の下るものであると共に、『松屋会記』などの松屋久政による記録もその信憑性に疑義が呈されていることに留意するべきだろう。

 

【参考文献】
堀口捨巳「妙喜庵の利休茶室待庵」(『現代建築』13号 現代建築社 1940)
伊藤鄭爾「待庵・湘南亭 解説」(『国華』856号 国華社 1963)
中村昌生「妙喜庵茶室 待庵」(『日本建築史基礎資料集成 二十 茶室』中央公論美術出版 1974)
伊藤平左エ門「利休茶室の復元」(『中部大学工学部紀要』26号 中部大学工学部 1990)
原田三寿「宝積寺絵図考」(『茶の湯文化学』2号 茶の湯文化学会 1994)
中村利則「国宝茶室待庵について」(『国華』1463号 国華社 2013)