武家茶道研究の現状と課題

江戸時代、幕府・諸藩には茶坊主・数寄屋坊主などと呼ばれる役職が存在した。岡氏は鳥取藩においては彼らの職掌として①藩主とその親族への茶道指導、②藩内の茶事監督、③茶室・道具・茶葉の管理があったとしている。岡宏憲氏はこれらの役職を茶道役と呼びまとめているので(岡2014)、本稿でもこの呼称を用いる。

この茶道役については、大名茶道についての注目が高まった1980年代以降、さまざまなかたちで研究の必要性が唱えられてきたが、残念ながら進展しているとはいいがたい。諸藩の事例収集はおろか、幕府についてもほとんど検討されていない状況である。今年度の茶の湯文化学会シンポジウムにおいてもその必要性を唱えながら、報告は片桐石州を中心に茶人として著名な大名・旗本についてのものがほとんどであった。本稿ではとくに将軍家の茶道役(柳営茶道)について概略を取りまとめたい。

将軍家茶道役の組織

将軍家茶道役についての概要は松平太郎氏、三田村鳶魚氏の研究中に知られる。

将軍家における茶道役は若年寄の支配下に置かれ、数寄屋(方)頭―数寄屋(方)組頭―数寄屋(方)坊主という3つの階層を中心に構成された。また、関連する役職として庭作役・山里道具役などが組頭配下に設定された。(松平1919)

数寄屋頭は定員3名、役高150俵で茶具一式の整備・修繕を担当したとされる。この配下に数寄屋組頭がいて、定員は6名ほどで役高40俵であった。数寄屋坊主は定員がなく100名ほど務めた時期もある。役高は20俵で、城内の表向きの空間などに常駐し茶を供するなどした。また、数寄屋頭以下同様の職掌は将軍の世子が居住した西の丸にも設置されていた。また、数寄屋頭・数寄屋組頭は将軍の御成・日光社参に供奉したほか、御茶壺道中(宇治茶を取り寄せ将軍に献上する行事)に参加した(松平1919)。岡氏の示した鳥取藩の事例と比べると、①・②にあたる仕事を行ったかは不明で、③を主な仕事としたようである。

なお、御三家・溜間詰以上の大名などの城内での喫茶は表坊主が、将軍家周りの喫茶は小姓衆が担ったとされる。茶道具の管理は茶道役たる数寄屋方に任されたが、実際に茶を供したという点では表坊主・小姓衆についても注視する必要があるだろう。(三田村1939)

数寄屋頭の変遷

数寄屋頭の成立は判然としない。室町幕府の職制にはなかったものとみられるが、織田政権・豊臣政権の職制に由来するのか、それとも徳川家が慶長以前から持っていたものか、新たに江戸幕府として整備したものか、未だ明らかになっていない。

近世前期の幕府茶道役について考えるために、『寛政重修諸家譜』(以下、『家譜』と略記)を見てみよう。『家譜』中に幕府茶道役とみられる人物は、北角相祐・水島忠意・河合友英・鳴海壽幸宗円・山本道句政勝・原田宗馭維利・原田利齋二蔵・原田宗馭鍋之助・中野笑雲(初代)・中野笑雲(二代)・中野笑雲(三代)・桜井宗伝正善・桜井宗恩忠政の13名が存在する。

なかでも原田氏・中野氏・桜井氏は慶長年間から元禄期にならないころまで茶道頭・数寄屋頭職掌を代々継承している。原田氏は医術を学んだ鍋之助の代で同朋頭格に転じる。中野氏は三代笑雲の代に罪を犯して断絶した。桜井氏は忠政の子が小普請として務め、ひ孫の信穆に至って御書院番となる。

次に『大武鑑』で数寄屋頭・数寄屋組頭について確認すると、天和3年(1683)までは基本的に『家譜』に見える状況が確認できる。なお、延宝3年(1675)には恃海宗円が見られる。『玉露叢』寛文3年4月条では、家綱日光参詣に供奉した数寄屋頭として桜井宗恩と鳴海宗円の名があげられており、この人物を指すとわかる。天和年間には名が見えなくなり数寄屋頭を辞めている。この人物が『家譜』に見える壽幸であったかその息子などであったかは判然としない。

いずれにせよ、寛永文化期の柳営茶道を支えた諸家は綱吉期に茶道役を離れる。ここにおいて将軍家茶道役はいったんの転換をみることになる。

これ以降の数寄屋頭は、特定の家によって世襲されるというよりも数寄屋組頭・数寄屋坊主と合わせていくつもの系統によってゆるやかに世襲されるような形態へと変化していく。

たとえば石州流野村派として知られる野村休盛の系統は、元禄期から務めて宝永2年(1705)に没する宗勝、享保17年(1732)に引退する勝惟、二代あいて享和3年(1803)にみえる勝成、一代あいて万延元年(1860)・文久元年(1861)の秀勝と必ずしも数寄屋頭を世襲したのでないことがわかる。

このほか、横山宗知の系統などは同家から何人かの数寄屋頭を輩出しているが、必ず該当する家によって世襲されたものでない。数寄屋頭としては1代限りしか登場しない人物などもある。数寄屋組頭の人名を合わせて考えても、この傾向は変わらない。

石州流嘉順派として知られる谷村家にしても初代三育は数寄屋頭を、4代可順は数寄屋組頭を務めるがほかにはみられない。石州流伊佐派として知られる伊佐家は享和3年の武鑑、文化11年(1814)の御茶壺道中などに名前が見えるくらいである。

残念ながら数寄屋坊主の人数はとても多く、ここまで含めて考えるというのは現在知られている史料からは難しい。ただし、数寄屋頭を務める人物の有無によらず、数寄屋坊主として系統を維持している家は少なくなかったことは推測できる。

【参考文献】
岡宏憲 「江戸期における「茶道役」について―鳥取藩の事例を中心に―」『茶の湯文化学』(21)2014
松平太郎『江戸時代制度の研究』(武家制度研究会)1919
三田村鳶魚『江戸百話』(大日社)1939
西山松之助『家元の研究』(校倉書房)1959
谷端昭夫「大名茶道の系譜」『茶道聚錦 五 茶の湯の展開』(小学館)1985
谷端昭夫『近世茶道史』(淡交社)1988
谷端昭夫『茶の湯文化史』(吉川弘文館)1999
谷端昭夫「大名茶道の展開と諸藩の茶道役」『淡交』(増刊号)1996