根津美術館(東京都港区)において、片桐石州を題材とする初めての本格的な展覧会がついに開催された。石州没後350年を過ぎること2年、近年進んできた片桐石州研究の現在地を見せる展示となっていた。
担当学芸員の下村奈穂子氏は昨年春の茶の湯文化学会総会で研究発表「茶会記にみる片桐石州の茶の湯について―道具の分析から」を報告されており、片桐石州研究の最先端にいるといって間違いない人物である。
片桐“石州”貞昌といえば、寛永文化後期に活動した大名茶人である。彼を流祖とする石州流茶道は江戸時代の喫茶文化においてその中核を担い続けてきた。しかしながら、近代以降の石州流の展開から片桐石州が茶道史上の重要人物として大きく取り上げられたことはほとんどなかった。近年、武家茶道の研究が深まるなかで石州研究の必要性が高まってきたことが今回の展覧会を結実させたといってよい。
展示は石州所縁の茶道具を中心に石州の茶風がどのようなものであったかを考察している。さらに、茶道具が石州のもとを離れたのち、どのような人物の手に渡ったか示すことで、石州の茶風が江戸時代の武家における喫茶文化で果たした影響までも射程に捉えた展示であった。
以下、展示内容について先年の下村氏の報告、先行研究を踏まえつつ、片桐石州の茶の湯と研究課題について確認したい。
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片桐貞昌は片桐貞隆の子。慶長10年(1605)に摂津の茨木城(大阪府茨木市)に生まれた。幼名は鶴千代・長三郎。のちに貞光・貞俊・貞昌と名乗りを変えた。兄弟に片桐貞晴・一色範風・本多忠純室・一色範視室。本妻は大久保忠常の娘。息子は下條信隆・栗原信明・片桐貞房・松田貞尚の4人がいる。寛永元年(1624)に従五位下・石見守となったことから石州と呼ばれる。寛永4年に貞隆が没し、遺領のうち大和の小泉城(奈良県大和郡山市)1万3488石を継ぎ、延宝元年(1673)に亡くなるまで治めた。貞昌の政治史的研究はほとんど存在しない。『大和郡山市史』に一定の記述が見えるほかはいくつか奉行としてかかわった仕事が知られているのみである。
一方で、片桐貞昌を特徴づけるのは茶人としてのキャリアである。今回の展示はもちろん、先年の報告も貞昌の茶人としての側面に注目したものである。片桐貞昌は桑山左近大夫貞晴に茶を学んだと伝わる。展示でも貞晴やその師匠道安などの手になる茶杓がいくつか展示された。
今回の展示では彼の茶人としてのキャリアのはじまりに寛永10年に始まった知恩院(京都府京都市)作事をあげた。知恩院作事で貞昌は作事奉行に任じられた。このとき、貞昌は9年の間在京し、在京の茶人・僧侶らと交流を持った。展示ではここで形成された京での人脈がのちの茶人としての名声に関わったとして、千宗旦や芳春院宗珀、高林庵宗璠などとの交流がうかがわれる書状などが展示された。
昨年の発表のなかで、下村氏は貞昌の確認できている茶会200件で使用された道具を分析し、道具の初出・使用頻度に着目して検討している。その趣向として中国禅僧の墨跡・古銅花入・瀬戸焼茶入・瀬戸焼茶碗などの多用、楽茶碗使用の減少、浅草焼の使用が特徴づけられるとしていた。
今回の展示でもこの成果を反映し、貞昌所縁の瀬戸焼茶入として瀬戸焼の「尻膨茶入 銘夜舟」「肩衝茶入 銘奈良」「肩衝茶入 銘八重垣」が展示された。これらが今回の展示の1つの目玉というべきものだろう。また、今回の展示ではこれら3点の茶入に仕覆や蓋などが複数付属していることも注目されている。貞昌自身の好みのものだけでなく、古田織部や小堀遠州、佐久間将監などの好みとされる仕覆・蓋が付属しており、貞昌が多様な武家の好みを把握し扱っていたことが看取された。
このような貞昌の茶風が世に認められたことを示すものとして、しばしば寛文5年に行われた江戸城(東京都千代田区)での献茶があげられ、今回の展示でもこの茶会に使われていた無準墨跡「帰雲」などが展示された。ただし、この寛文年間の献茶は貞昌について研究するうえでいくつかの問題を孕んでいる。第一に、このときの道具立てが貞昌の作意を認めうるものか、という点がある。今回の展示などではこのときの道具立てを貞昌の作意と認め、この茶事をもってその評価が定まったものと位置づけた。しかし、この献茶では貞昌のみならず船越永景も点茶を担当しており、2人の道具立てが半分以上共通していることが注目できる。どこまでが個人の作意で、どこまでが茶道役などに決定されていたかは、検討の余地があるだろう。
片桐貞昌の茶風は江戸での茶会を通じて諸大名・旗本に広がり、献茶によってその名声を確かなものとした。この結果貞昌は茶技に関する助言や茶道具鑑定などを依頼されるようになっていく。これをどこまで流派の誕生として、師匠と弟子の関係として位置づけうるかは慎重になるべきだが、その茶風は石州流として完全相伝制による伝授を基本とし、全国に展開していった。特に今回の展示では諸大名/徳川家の茶道役に石州流の諸氏が採用されたことで「武家の正統」としての地位を築いたものと位置づけている。
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片桐貞昌の茶の湯について、今回の展示でよくその研究状況を通覧できるものになっていたと思われる。それゆえに片桐貞昌とその周辺の茶の湯を考えるうえで多くの課題が浮き彫りになっていたともいえるだろう。
第一には片桐貞昌の政治史研究の欠如があげられる。貞昌の職掌がどのようなもので具体的にどのような仕事をしていたか、これを適切に位置づけていく検討がまたれる。
第二には船越永景など同時代茶人の研究の不足があげられる。船越永景の研究は八尾嘉男氏によって進められているが、貞昌を適切に位置づけるためにも、多くの茶人が検討の対象となる必要がある。
第三には茶道役の具体的な検討である。石州流茶道が茶道役に受容され武家の正統となったと位置づけるためには、茶道役の具体的な検討が進まねばならない。現段階では茶道役のなかに石州流を名乗る人物がいたという程度に留まってしまっている。
片桐貞昌とその時代は茶道における流派の成立期と考えられており、現代につながる茶道文化を知るうえでかなり重要な地点を占めている。知名度などの点から研究の進展には差し障りもあろうが、より多くの事柄が解明されることを期待したい。
付録 片桐貞昌の先行研究リスト
堀口捨巳「石州好み茶室と慈光院書院」『清閑』13(清閑舎)1944年
桑田忠親『片桐石州と茶道芸術』(創元社)1950年
西山松之助『家元の研究』(校倉書房)1959年
西山松之助「石州三百箇条」『図説茶道体系』(角川書店)1962年
柳沢文庫専門委員会『大和郡山市史』(大和郡山市)1966年
町田宗心「『石州三百箇条』の成立」『茶の湯文化学』(5)
八尾嘉男「片桐石州自会記」『茶の湯文化学』(9)2004年
町田忠三「『石州流三百箇条』成立の背景と将軍茶道師範」『茶の湯文化学』(10)2005年




