吉川弘文館/2024年1月刊/ 四六判/312ページ/2530円/ISBN: 9784642053167

浅野寧(高台院。名前については後述)は羽柴秀吉の本妻として世に広く知られているが、その人物像は小説やドラマで描かれたイメージがそのまま定着している。人物叢書『高台院』はそんな寧の生涯を一次史料によって再検討、再構築していこうというものである。

寧の生涯という本書の性格から記載されている内容をすべて取り上げることは難しいため、今回は各章で気になったエピソードを紹介していきたい。『高台院』では寧にまつわる人々も多く取り上げられているため、彼女を中心とした人物ネットワークを考える際にも多くの示唆を与えてくれる。まずは目次を確認したい。

目次
はしがき
第一 誕生から結婚まで
第二 近江長浜時代
第三 北政所時代
第四 高台院と豊臣家の存亡
第五 晩年とその死
おわりに

*  *  *

第一章では、寧の名前や家族構成など彼女に関する基本的な情報について整理している。実は寧の名前も議論がわかれているところで、「ねね」とする説、「ねい」とする説、「ね」とする説がある。

寧の発給文書の自署には「ね」と書かれているものがある。これがねねの名前は「ね」であるとする根拠になっている。

しかし、当時の女性が名前の1文字のみを署名とすることはよくあることだった。さらに、この当時の女性名は2文字が基本であるため、「ね」が名前とは考えにくい。女性の名前は一次史料のみで証明することが難しく、寧の実家(杉原氏)・養家(浅野氏)が認めている名前が「ねい」であることから、本書では「寧」を名前として使用するとしている。

創作物では秀吉と寧の結婚は恋愛結婚であったとされることが多い。しかし、寧が浅野家へ養女に入った経緯を考えると、非凡な才能があると見込まれていた秀吉と寧を結婚させることで、秀吉という優秀な人間を浅野家の聟として迎えたと考えるほうが自然である。

*  *  *

第二章は、秀吉が長浜(滋賀県長浜市)を治めていた時代の寧の居所を含めた動向が語られる。この時期は信長在世中で合戦が多く、秀吉は長浜に滞在して寧と過ごせる時間は少なかった。また寧は秀吉の後継者であった「石松丸秀勝(秀吉と南殿との子、あるいは養子)・次秀勝(織田信長の子で秀吉の養子)」との関係も薄かったため、家族関係に恵まれていたとはいえない時期としている。

代わりに黒田長政など秀吉のもとへ人質として来た人物たちを世話し、この関係が後々まで続き、寧の政治力の一端になっていく。

この時期の有名なエピソードといえば、信長から寧に宛てられた「はげねずみ」書状であろう。本書でも当然取り上げられている。秀吉の浮気に憤る寧に対して信長が寧をなぐさめつつ、この手紙を秀吉にも見せて反省をうながすよう伝えたという書状である。このなかで信長は秀吉のことを「はげねずみ」と呼んでいる。

桑田忠親氏は文末を「ぶんていに、はしハには異見、こいねがうものなり」と読み、この書状の秀吉に見せるようにと解釈していて、現在はこの読みが広まっている。しかし福田氏は原文書を確認した上で「文体恥じ入り、拝見こいねがうものなり」と読むべきと述べている。これは福田氏の新解釈ではなく、昔の写本類でもそう読まれていた。この場合は「恥ずかしい文章なので、(人には見せないように)拝見をお願いしたい」という意味に解釈され、桑田説とは正反対の意味になる。

福田氏は「はしいり」と「はいけん」の間に墨継ぎがあるので、「はしいり」が「はしハに」だとしても「羽柴には異見」とは読めないとしている。これについて少し解説を加えたい。文章を書く際には意味のまとまりごとに墨を継ぐのが基本ルールになっている。「羽柴には」だった場合、助詞「には」を書ききらずに途中で墨を継いだことになってしまい、きわめて不自然というのが、福田氏の主張だと思われる。

*  *  *

第三章は秀吉が関白になり、寧が北政所と呼ばれるようになった時期についての動向である。北政所とは関白の妻に対する称号である。関白の妻は従三位に叙せられるのが通例であるが、寧に対する叙位は確認できない。叙位があったかはわからないが、寧は北政所と呼ばれるようになる。

本能寺の変前後から秀吉は複数の妻を迎える。織田信包の娘・京極龍・浅井茶々・前田摩阿などである。秀吉は妻だけでなく、豪姫(前田利家の娘)・小姫(織田信雄の娘)・小吉秀勝(秀吉の姉の子)・秀俊(のちの小早川秀秋)などを養子に迎えている。彼らの養育については寧が関わっていた。

朝鮮出兵時に寧が秀俊に対して不機嫌な態度で当たったことを責める手紙を秀吉は送っている。そのなかで「あなたは子供がいないのだから秀俊だけを子供と思って可愛がってほしい」ということを書いている。これは寧にとって禁句だったと福田氏は言っているが、この主張に同意したい。この時代の常識を考えても、寧が自分の意志で子どもを持たないことを選択したとは考えがたく、望んでも恵まれなかったと考えるのが自然だろう。

実はこのとき、寧の実父が死去していた。寧の不機嫌はそれが理由であり、秀吉は義父の訃報を知らなかったのだろうと福田氏は推測している。この後、茶々の妊娠を聞いた秀吉は寧に「私は子供は欲しくないので、茶々の子は茶々だけの子にしておけばいい」と書き送っている。秀吉も失言をしたと気付いたのだろう。寧を気遣う文面で夫婦の関係性が垣間見えて興味を引かれる。

茶々は天正17年(1589)に鶴松を、文禄2年には秀頼を生む。秀吉の後継者を茶々が産んだことで寧と対立が生まれたといわれてきたが、実際は寧は茶々と協力して羽柴家を盛り立てていった。また後継者を産んだことで茶々は妻のなかでも別格であったが、寧の序列は一位のまま変化はない。

*  *  *

第四章では秀吉死去後から大坂の陣までを取り上げている。慶長4年(1599)9月に家康は寧が退去した大坂城西の丸(大阪府大阪市)に入る。これまでは茶々と対立していた寧の協力のもと家康が西の丸に入ったとされていた。しかし寧と茶々はこの後も連帯しているため、事実に反する。寧は豊国社に通いやすくするために伏見城から京都新城(いずれも京都府京都市)に移る許可を秀頼に求めるために大坂に来たにすぎず、大坂城西の丸は寧の定住場所ではなかった。京都新城は秀頼のための城だったので、寧が独断で住むことはできず、秀頼と交渉する必要があったのだと述べている。

関ヶ原の合戦前には寧は茶々の代わりに家康と交渉している。家康を大坂に引き留めることで茶々は秀頼の出陣を阻止したかったのだろうと福田氏は推測している。

結果として家康を大坂に留めることはできなかったが、秀頼の出陣阻止と大蔵卿局(茶々の乳母)の赦免をかなえている。これは寧に大きな政治力があったことを示す一つの証であった。茶々と寧は羽柴家の存続という共通の目的のために協力して動いていることがわかる。

関ヶ原の合戦で黒田長政と浅野幸長は寧を引き合いに出して小早川秀秋が家康につくように説得している。長政は人質時代に寧の世話になっており、幸長は寧の甥になる。秀秋にとって寧は後見人的な存在であった。つまり3人とも寧を中心としたネットワークに属していたということになる。

慶長8年に寧は出家し、高台院の院号勅許を受ける。この後、寧は高台寺を建立するが、彼女自身は京都新城に住み続けた。

いわゆる「方広寺大仏殿鐘銘事件」で上方が騒然とすると、寧は屋敷で軟禁状態におかれてしまう。大坂の陣では平野長泰(賤ヶ岳の七本槍の1人)が息子を大坂城から出すべく寧に助力を乞うが、寧は今の自分には対応できないと断る。寧自身の認識とは違い、周囲の人間からは寧ならこの状況を変えられると思われていたことがわかる。その期待が徳川の警戒を招き、軟禁状態を作り出したのだろう。

*  *  *

第五章は寧の晩年から死去までを扱っている。大坂の陣の後、豊国社の解体が進められた。豊国社の社僧の神龍院梵舜(吉田兼見の弟)は豊国社を残そうと奔走するが、かなわなかった。梵舜は豊国社を神龍院に移し、豊国大明神の名前を鎮守大明神と変えて存続させた。高台院も初穂や神供・灯明料を届けさせている。この鎮守大明神は梵舜が死去するまで存続した。

豊国社の社家には萩原兼従(吉田兼見の孫で、兼見の養子)が就任していた。兼従の妻は木下勝俊の娘であったため、高台院は兼従夫妻の後見も務めていた。つまり豊国社は吉田氏の一族によって運営されていたことになる。

また、この章は木下家や浅野家、寧と懇意にしていた人々についても多く記載がされていておもしろい章である。一時期、寧と木下延俊が不和になっていたことや、鍋島直茂(肥前の大名)の妻・陽泰院をはじめとした大名の妻たちとのやり取りなどが載せられている。

寛永元年(1624)8月頃に寧は病に伏せ、9月6日に亡くなっている。寧が所持していた秀吉ゆかりの品々は、前年に寧が養子に迎えた木下利次に引き継がれた。

*  *  *

寧の一生は波乱に満ちたものだった。寧が秀吉と結婚したときは、まさか自分が関白の妻になるなど思いもしなかったことだろう。

女性は歴史の表舞台に立つことは少なく、そのため史料も少ない。いきおい歴史の叙述は男性中心にならざるをえない。そのようななかで寧のように多くの事績が確かめられる女性は稀有である。読者は彼女の事績を通してその時代を見ることで、新しい視点を持つことができるだろう。その意味でも本書は名著といえる。