近世の石造物は全国に無数に存在するがゆえに現在保護を受けていないものを多く存在する。しかも多くのものは移動が可能であり、ちょっとしたことによってその位置を転々としてしまう。現在それらが建造されたところにそのまま存在しないことが多く、数年前と異なる位置に存在することもしばしばである。上野においても近年は寛永寺墓地・谷中霊園で整理が進められ移転した墓所もある。別のところでは地震の影響で石造物が移転・撤去された例もある。本稿では所在確認を目的とし、台東区上野公園・上野桜木の東叡山旧境内における近世石造物を概観する。
上野公園がかつて東叡山寛永寺のあったところであることは能々ご存じの方も多いだろう。国会図書館の利用者登録を済ませてあれば光井渉教授の論文「近世寺社境内とその建築」を読むことができる。この中の「第2章 近世巨大寺院造営と幕藩権力」において東叡山造営を概観できるから、まずはこれを標に東叡山のかつての姿を思い描くこととしよう。
現在の上野公園は旧東叡山内のうち北西部の各院・北部の将軍霊廟を除いた範囲を指す。動物園や不忍池、山上の各文教施設のみならず、護国院・都立上野高校・東京芸大などの博物館より西の区画、博物館東側にある諸子院も住所が上野公園となっている。博物館北側の霊廟と、北西部の各院は現在の上野桜木に当たる。
かつて36院を数えた子院の大部分は上野戦争で焼亡、明治政府によって接収され、大学東校の用地とされた。大学東校の建設はボードウィンの建議によって中止される。ボードウィンがこの景勝の地を公園とすべきであるとしたのだった。このころには本坊が陸軍用地であったほかは文部省用地となっていた。大学南校の移転先として選ばれると寛永寺・東京府知事がこれらに反対した。明治6年1月15日の公園設立の太政官布告を後ろ盾に寛永寺・東京府はここの公園化を目指していく。結局明治6年8月13日に現在の西洋美術館などから東博、都美術館、芸大のある辺りが文部省用地に、動物園、摺鉢山、上野公園のある辺りが東京府の用地になったらしい。その後博物館建設に向けて内務省が本坊跡を得て、中堂跡(噴水・都美館付近か)は府用地になった。文部省用地は現在の芸大付近と科学博物館付近となった。そして府用地は公園として整備され、文部省用地は教育博物館や竹の台陳列館などを経て東京芸大・子ども図書館・科学博物館・西洋美術館・学士会館など文教施設が数多く建設された。内務省が取得した本坊は博物館となり内務省から様々移管されて現在の通り東京国立博物館となっている。これら文部省・内務省の土地取得から外れた博物館東側の一区画と博物館北側の大部分は東叡山の諸子院が入った。
東叡山はもともと津軽家・藤堂家・堀家の屋敷地であった上野台地を用いて、寛永年間から順次造営し、最終的には36院を数える大寺院となった。三家の屋敷地がどのような配置であったかは詳しくわからない。いちおう津軽家の子院津梁院は境内北方に、藤堂家の子院寒松院は境内西側、上野動物園の一部にあたり、堀家(村上藩)の凌雲院は境内の南側、日本芸術院や摺鉢山などに挟まれた辺りであった。
寛永初年に本坊が完成し、寛永二年に全体計画が整ったものと考えられ、寛永四年から寛永度造営が行われた。この中途、寛永9年に秀忠が没したがその廟は増上寺に設けられ、東叡山の造営は続けられたことから東叡山の造営は家光らの推し進めたものであったと考えられる。実際に参詣・寺院御成の記録を眺めると秀忠が天海のもとを訪ねた記録は家光が天海のもとを訪れた記録と比して少ないようにも見える。
寛永度造営では西の丸にあった秀忠御座所を移して本坊とし、土井利勝・小笠原長真・富永参吉らが普請奉行であった。本坊を中心に現在の噴水・噴水前広場辺りに法華堂・多宝塔などを御三家が、寒松院と東照宮を藤堂高虎が整備し、そのほか大仏や鐘楼など諸堂は堀直時・土井利勝などこの造営にかかわった人物の寄進によるものが中心となった。この時の造営ではまだ中堂などが造営されていなかったほか、本坊奥に霊廟が未整であったからそこに子院が広がっていた。これらの状況が変化したのは続く元禄度の造営である。将軍霊廟が本坊裏手に建設されるようになって子院が移転を余儀なくされると、幕府と檀越は多大な出費を余儀なくされる。大猷院廟のみで済むならまだしも厳有院廟の建設が行われ、今後も寛永寺における将軍霊廟の建設が進められることが想定されていたのだろう。大猷院廟は本坊東、現在の両大師裏手に造営がなされ、厳有院廟がその北方に建設される。さらに家綱の室高厳院の廟と別当寺春性院が新たに加わり、元禄期にはそれまでの全体プランが崩壊していた。
第一次元禄度造営は根本中堂の造営を中心に行われた。噴水・噴水前広場の空間に建てられていた法華堂などは移転し、ここに回廊・直学問などを備えた根本中堂が成立した。他にも観音堂・山王宮・仁王門など既存の堂舎の多くを移転した。勅額門に勅額が運び込まれた日に上野で火災が発生し、境内北側の堂舎(本坊・大猷院廟・厳有院廟等)が焼失した。これにより第二次元禄度造営が始まる。子院の半数が移転となり、根本中堂周囲と本坊北西部に空き地を生み出したものだった。この時に完成したプランが基本的に上野戦争まで引き継がれている。
さてこれらといくつかの古図を頼りに現存する石造物について概観していこう。
不忍池は後世埋め立てがいくらかあった。上野動物園の池之端側の園地はほとんどがそれである。浄名院の里坊と花畑、田村椎右衛門の領地が池沿いにあったと見えるが、これも上野動物園の園地となった。弁財天は寛永度造営に際して水野勝隆らが造成した。聖天がまつられる小島がもとはあったとされ、古図に聖天が見える。伊藤忠太作の楼門などがあったが空襲で焼失している。
この島で注目すべきは石橋の付け根に立つ二つの灯籠で、台・竿は石造、中台から火袋、笠、宝珠などは鋳造で構成されている。竿は四角柱で内側側面にそれぞれ篆書を記す。笠は六角でかなりきつい曲線を描く。宝暦十年の寄進で宝珠院の識語がある。東叡山内は金属製・石製の六角台灯籠が主流である中で、異色を放つ一品といえる。笠の裏に3方に龍・獅子などを配するほか、宝珠の文様が各所に見える。シンプルな竿と合わせて比較的整った印象を与えている。
黒門からまっすぐ噴水まで伸びる道の右上には清水観音と山王社が並んでいた。山王社はグリーンパークから彰義隊戦死者碑辺りに広がっていたらしいが特に痕跡はない。江戸城内紅葉山山王が移転し、東京文化会館あたりに、ついで元禄度造営に際して当該地に移転した。
同様に本覚院・凌雲院なども元禄度造営以降の所在地ははっきりとはわからない。前者は東京文化会館のある辺りから西洋美術館の庭辺りまで、後者は日本芸術院・上野の森美術館とその前の広場・園地とみられる。
天海僧正毛髪塔は本覚院の遺構である。厳有院廟から移された石灯篭二基と、元よりあったと思われる石燈籠四基・石塔・宝塔・水盤・花瓶がある。厳有院廟からの灯篭両基は昭和32年に移されたことを示す文が彫られている。
観音堂ははじめ寛永8年に現在地よりも北、摺鉢山に建設され、元禄度造営で現在地に移築された。当初から清水寺を意識したものであったから、摺鉢山を洛東の清水山に見立てたのかもしれない。ここにも近世のものとみられる複数石灯籠があるが、近寄って観察することができないためおよそ詳細は不明である。確認できるところでは大猷院廟・浚明院廟から移された灯篭がある。
稲荷とあるのはかつて穴稲荷とよばれたところで、現在は五条天神・花園稲荷両社・韻松亭があるところといえる。ここは近世から残るものは少ないが公園側の入り口にある狛犬が宝暦三年のものである。願主は野本氏とある。やや表現は硬いがそれがかえって可愛らしさとなっている。境内の灯籠は近代の物であろう。
上野大仏は寛永度造営に際して堀直時の寄進で建造され、その後位置の変動はなかったがたびたびの罹災を経てお顔のみが残っている。伊藤忠太の作品集に台座等の図面が見えるが写真もなく詳細は不明。薬師三尊を祀るパゴダを中心に大仏などがある。パゴダ前の香炉は近世の石材に見えるが銘は無く詳細は不明。大仏の周囲にはほかにも宝暦年間の宝塔、年代不明の地蔵菩薩像などが並んでいる。精養軒は妙教院敷地におおよそ該当すると思われる。妙教院は大仏に附された支院らしいが石造物の有無は不明。
駅周辺の凌雲院から福聚院にかけては石造物が確認できない。東京文化会館・国立西洋美術館・国立科学博物館・日本学士院などがあって旧状を偲ぶものはない。
両大師は慈眼堂からくるもので、輪王殿に本坊表門などが移されている。紀年銘のない金属灯籠四基と金属製手水鉢は近世の作ではなかろうかと思われる。金属製手水鉢は左右に鳥が鋳出されてありいずれにせよ特徴的な作例である。石製手水鉢は丸に二つ引きと輪宝でともに南光坊天海に関連する。天保年間に作られたがどこかで失われ、のちに再建されたらしい。宝塔も一基ある。
東博・東文研敷地はかつての本坊と本坊奥・西の空き地を合わせたところである。本坊は本館とその前の広場、東洋館・表慶館・資料館あたりで、法隆寺宝物館・平成館・東文研などは本坊西の空き地に当たる。平成館・法隆寺宝物館建造時の発掘調査により、空き地の土塁跡などが出土している。本館裏の庭園は旧本坊庭園を都度改造したものであるという。この庭園には丸岡藩有馬氏の墓石が所在する。しかし、丸岡藩有馬氏は丸岡の高岳寺と東叡山本覚院を墓所としたから、これらは本覚院由来のものであり、本覚院旧所は先述の通り天海僧正毛髪塔付近であること、近代以降本坊は陸軍用地・博物館となって有馬氏の墓所が移されてくる理由もないことを合わせると、ここにある理由はわからない。
東博東の区域は元大猷院霊廟のあったところで、近世末期には消失していたから空き地となっていた。明治期に上野桜木を転々とした寛永寺子院は、大正期にこの大猷院霊廟跡に集まった。このあたりの子院には旧大猷院霊廟石灯篭が残されている。道路沿いに空き地が広がってあってここに幾つかあるが、今後どうなっていくか注視したい。旧大猷院廟の東は東漸院南の空き地であったが、現在は住宅がいくつかある。崖下の寺地にあった現龍院の墓地がここに移されているのも注目できる。
上野小は東漸院旧地と思われるが現状は不明。寛永寺墓地はかつての将軍霊廟に当たり、現在も複数の霊廟が現存している。上野は震災の影響は受けたが戦災の影響は比較的少なかったから、上野戦争で焼け残った近世の建造物は大半が現存している。寛永寺墓地の端、その入り口には数十の石灯籠が分解されて一ヶ所にまとめられている。旧将軍霊廟石灯籠の部分とみられるが、舟形の菩薩像、宝篋印塔部分、墓地の石扉などもあって今後が非常に気になるものである。現状の把握はどこまでなされているだろうか。
寛永寺現境内は大慈院境内におよそ該当するものと思われる。寛延期の宝篋印塔など由来不明の石造物がいくつか見えるほか、巨大な石製手水鉢が二つ、銅灯籠二基などが見える。本堂は川越喜多院の遺物で、上野戦争後に移築されてきたものである。裏の庫裏の前に旧大猷院霊廟石燈籠一基も見える。
寛永寺は東京芸大の裏手に当たる。芸大の敷地はふつう音校・美校に分類されるが、これを分断する通りは古いものではない。東京美術学校・東京音楽学校の合併以後、しばらくしてからのことである。旧音校敷地は芸大敷地の北側で、元光院敷地に相当する。社会教育センターは元光院東の空き地、子ども図書館は明王院敷地に当たる。旧美校敷地は現在の通りよりも北側まであって、東博黒田館の北端がかつての通りのあったところとみられる。これら美校敷地は等覚院・覚成院・東円院・涼泉院敷地を中心に構成され、護国院敷地北部もその多くを得ていると見られる。護国院敷地の縮小はいくつかの段階に分かれるように思われるから詳細を検討する必要がある。芸大で唯一とみられる近世遺物は音校敷地の北端、旧元光院敷地の一石一字塔で別稿に取り上げた。
学寮敷地はほとんど住宅地となっていてかつてを偲ぶよすがは見えない。津梁院は多少縮小しているが現存。旧津梁院敷地の一部に養寿院が移っている。養寿院は大猷院霊廟石燈籠が一基見え、他にあるのと装飾の一部が異なって面白い。養寿院は他にも元治年間の石碑、延宝年間と見える舟形の菩薩像などが鎮座している。津梁院は墓参者以外見ることのできない部分が多い。近世灯籠が一基確認できるが、銘文がはっきりしないから詳細は分からない。
律院は浄名院として現存している。ただし、近世末期から地蔵信仰の寺として信仰を集めたために無数の地蔵尊が存在する寺となっている。どれも近代のものである。飾りのように倒しおかれた水盤や年号以外の銘文が削り落とされた石燈籠などが本堂前にある。石燈籠両機はともに慶安年間のもので、大猷院霊廟のものである。このほか宝塔・宝篋印塔が見られる。宝塔は天保年間、宝篋印塔は文化年間である。春性院・観成院は現在その跡を残さない。ここより北は谷中霊園の一部をなしており、寛永寺諸塔頭の墓地がここにあり、近世石造物も相当数あるから今回は触れない。円珠院は現在縮小しているが存続している。近世灯籠も三基ほどある。どれも旧将軍霊廟石燈籠である。松林院・養寿院の跡は住宅街となっていて現在その様子は見えない。
護国院旧地は芸大美校・都立上野高校・上野動物園敷地北部に当たる。清水坂のあたりも護国院敷地であったと思われその広さは現在からするとだいぶ広大なものであったことが知られる。芸大構内にその痕跡はなく、上野高校もおそらく同様であろう。護国院は漸次縮小して旧地の北端に敷地を残している。享保年間の手水鉢は小さいが近世以来。宝塔は年代不明であるは、近世以来と思しき部品も多い。一部後補ではなかろうかと思われる。灯籠台座なども残っている。本堂が享保年間のもので、上野に残る数少ない近世木造建築の一つと言える。動物園北西側は護国院敷地、北東側は寒松院敷地であった。寒松院以来藤堂家墓所があるが一般には公開されていない。寒松院閑々亭茶室は後代の再現である。南部は東照宮敷地に当たるが、園内にはその五重塔が残るくらいだろうか。
上野東照宮はその敷地を縮小したが、参道・中心社殿を今に残している。参道には石燈籠・金属灯籠が多数存在する。金属灯籠は48基あって、藤堂高虎寄進の一基を除いて慶安四年の寄進である。藤堂高虎寄進の物のみ寛永五年。石燈籠は151基あって、表参道の91基はどれも慶安四年の寄進、脇参道には他の紀年のものが多くあって成立の違いが見える。脇参道のうち二十五基は大坂建国寺東照宮にかつてあったものが明治九年に移されたものである。どれも東照宮宝前とあるのが通例だから詳しく判別はつかないが、脇参道の成立を考えるうえでこの違いは捨てがたい。表参道はほとんど安山岩製とみられるのに対し、脇参道には花崗岩製などもみられる。花崗岩製の石造物は巻頭に例が少なく、特に赤みを帯びたものは筑波山系の花崗岩とは特徴が異なるから、これが大坂より運ばれた可能性もある。しかし、表参道鳥居は西国から運ばれた花崗岩製のもので近世以来ここにあるから、同様に明治以前に運ばれた可能性は十二分に考えられよう。
上野各所に点在する将軍霊廟灯篭であるが、大猷院霊廟石燈籠がまずその過半を占めるのではなかろうかと思われる。大猷院霊廟は享保五年に焼失し、再建されなかった。近世に跡地が利用された記録はなく、大正期に各子院が移転するまでその状況ははっきりわからない。ただし、長年にわたり利用されなかったことはその参道にあったと思われる灯籠が点在している所以と言えよう。今後も散逸が進むと思われるから、現在の所在地を確認しておく必要は高いように思われる。大猷院霊廟石燈籠はどれも慶安四年製で、上野東照宮表参道の諸灯籠と同年であるから作風の比較などを通して分割された灯篭の復元的な検討も可能であろう。灯籠がこれほど多量に、しかも特定の年次のものが残されている例は決して多いものではない。他の灯籠も現況の記録をより多く残すことで、その検討を進めることができようと思われる。
他の将軍霊廟石燈籠もかつては広かった将軍霊廟周囲の空間が霊園化される中で各所に移されたものとみられる。都立霊園やその他寺院の墓地でも古くなった近世墓所の改葬が行われる事例をよく見かけるから、このような石造物は今後も増えていくことだろう。はじめにも述べたが撤去されてからでは遅い。その多さから文化財となるにはまだ時間がかかるだろう。失われる前に所在や様態の記録を進める必要がある。




