本稿では石造物調査の基礎について、実際に石造物調査を進めながら見ていこう。今回題材とするのは東京芸術大学上野校地北端に位置する一石一字塔である。上野校地の北端には講師向けの宿泊施設があって、そのすぐ北、敷地端の塀にほとんど接する形で存在している。芸大の校史を見る限り特段の記述がないことから、芸大関係者の中でも存在を知るものはわずかであったのだろうし、知っていたとしても近世後期の石塔など調査対象としてこなかったのだろう。学校の史料からは特に情報を得ることができなかった。今回はこの石塔に関して今後の調査に必要な情報を獲得するためのフィールドワークまでに必要な作業と、フィールドワークの中で最低限行うべき作業を見ていきたい。
フィールドワークに行くときに、何の情報もなしに突っ込むのでは結局有益な情報はあまり得られない。調査技術が高い人などはそれでも何かしらを得てくるかもしれないが、基本的には事前に最低限の情報をもって現地で考えながら観察できるのが良い。今回の一石一字塔の場合事前に存在を知っていたが、知らない場合でもまず訪問するエリアはどのようなところであるのか、土地利用の変遷などは押さえておきたい。別稿で東叡山境内全体の土地利用の変遷に触れているが、ここ、芸大構内北端について確認してみよう。
光井渉教授の『近世寺社境内とその建築に関する研究』によるとここ芸大構内北部は元光院敷地に当たるが、これは元禄度造営の少し前からのことである。それ以前は東円院・福生院のあったあたりと思われる。元光院は寛永年間に開かれたのち、延宝八年、本坊背後からここに移された。元禄16年に罹災し再建がなされた。檀越は神尾元光・佐竹義宣・松平出羽守などが務めたとされる。天台宗東京教区による元光院の紹介では開基は権僧正長清、檀越は神尾備前守元光であり、元光の名をとって元光院としたという。
神尾氏は堀田氏分家の紀氏流と、阿茶局所縁の加茂氏流(寛永諸家系図伝には藤原氏として見える。)、徳川綱吉に仕えて旗本となった源氏流があるが、寛政重修諸家譜にも、寛永諸家系図にも神尾氏に元光という人物は見えないし、神尾氏に上野元光院を墓所とした人物もない。神尾氏の中で最も多い加茂氏流神尾氏は深川雲光寺を代々墓所としていた。神尾元光なる人物は史料編纂所のデータベースにさえ見えない。
そして、神尾備前守と寛永期に呼ばれたのは神尾元勝である。元勝は岡田元次の子で阿茶局との縁から加茂氏流神尾氏に入り、この一族は深川雲光寺を墓所とした。寛永期には作事奉行・長崎奉行・江戸町奉行などを務めている。この元勝が元光と名乗ったことがあるなら元光院の由緒に矛盾はない。
元勝は寛永十五年に備前守を叙任している。それ以前は内記であったとされ、実際に細川家史料23巻に見える神尾元勝并酒井忠知銘々宛書状などでは宛名が菅内記様となっている。なお菅は誤字で、寛永期の他の史料でもなべて神内記・神尾内記とある。寛永十七年の史料では神尾備前守となっており、この前後からの書状でも神尾備前守と記されている。これらは寛永諸家系図伝には寛永十五年のこととして「同年十二月晦日従五位下に叙し備前守に任ず」とあることからも確かめられる。寛永後期に元勝は備前守と名乗った。
では神尾備前守元勝は元光と名乗ったことがあるだろうか。神尾元勝の名は寛永期から確認できる。寛永10年の秋田藩蔵神尾元勝文書には神尾内記元勝と見える。寛永14年の島津家文書2492番も同様である。備前守となってからも同様で、万治元年の吉川家文書208番を見るに神尾備前守元勝とある。神尾元光を名乗る書状は確認できず、寛永期以降基本的に神尾元勝を名乗ったことが分かる。そして寛永諸家系図伝の神尾元勝の項を見ても元光と名乗ったことは見えない。自らの前名などを記さない理由がないから寛永諸家系図伝に元光の名がないことは神尾元勝が寛永期以前に元光を名乗ったことはないように思われる。寛政重修諸家譜など後代の史料にも見えないことから元勝が元光と名乗っていたとは考えにくい。
もちろん、神尾元勝発給文書を全て確認できたわけではないからもしかすると神尾元勝自身が諸家系図伝には記さなかったが、一時期元光と名乗ったということがあるかもわからない。元勝の兄弟は忠直・元直であり、息子は元真(元珍)・元茂(元清)・忠勝となって元光を名乗った人物は確認できない。寛永諸家系図伝の時点では土屋民部少輔忠直/岡田竹衛門元直/神尾主水元真/神尾内膳元茂となっていたらしい。備前守は元茂(元清)が継ぎ、元真(元珍)は若狭守を叙任された。その後、神尾備前と名乗ったものは元茂の三代後、元壽が寛政重修諸家譜に確認できるが、どれも元光と名乗ってはいない。
少なくとも神尾備前守元光が寛永年間に開いたとするのは誤伝と判断するべきである。少なくとも神尾備前守元光なる人物は寛永年間には存在しない。元勝が実際に元光でなかったならば神尾元光が檀越となって創建されたために元光院となったとする由緒も疑わしくなってくる。神尾元光なる人物が存在しないことになるからだ。寛永年間に元光と名乗る幕閣・諸侯は確認できていない。
筆者の不勉強でこれ以上確認ができていないから、これらの事情についてご存じの方がいればご教示いただきたい。
このようなわけでその由緒は判然としないが、いずれにせよ芸大上野校地北側は延宝八年以後元光院敷地であった。上野戦争でこれらが失われると、文部省用地となる。大学東校・南校建設問題を経て内務省が本坊に博物館を立て上野が公園となっていく中でもここは文部省用地であった。東京音楽学校は明治二十三年にこの地にやってくる。以後、元光院敷地南側の道は南に移されるなどしたが、元光院敷地は変わらず東京音楽学校/東京芸術大学の校地であり続けた。
実際に現場を訪れると石造物を観察することになるが、最低限必要なものは全体像・銘文・図様の記録であり、これらについての写真撮影は必ず行う必要がある。石造物はきちんとした調査を行う場合、斜めにライト/ストロボを当てて凹凸に影が出るようにするなどして文字・図様がはっきり見えるよう写真を撮ることが多い。このためにはカメラ・ライトをそれぞれ設置するための三脚が必要であり、いくつか光の角度を変えていくためにそれなりの調査時間を要する。サイズにもよるが計測をしていく必要もあるからフィールドワークの中でそれをいちいち行うのは難しい。まず最低限必要な全体像の記録、銘文の読解に必要な資料の作成は必須であり、特徴的な部分については年代比定に用いる場合もあるから図様の記録も行いたい。 多量にある場合でもこれだけはこなしておきたいものである。
全体像の記録はまず写真において行い、それから簡易の模式図に気がついた情報をメモしておく。その場でこれを行うのに測量野帳などを持っておくとよい。写真の撮影では、所蔵者・土地所有者の意向もあろうからフィールドワークの中で行う限りにおいてはストロボ・三脚などは用いることができないのがほとんどである。一脚も基本的にはよしておいた方がいい。全体像の記録はきちんと台座部から全体が入るようにしていなければならない。また、これだけではサイズ感がはっきりしないから同時にマッチ箱・人間など並べて比較対象を作ったカットを別に撮影するとよい。時間が許す限り計測も行いたい。大きすぎるものだと全長などの計測は難しいかもしれないが、各部材や模様などの計測を行っておきたい。
銘文の読解には基本的に写真が役に立つ。欲を張れば拓本の制作が良いのだが、拓本はそもそもきちんとした手順でなければ石造物を汚損するし、正しい手順であっても紙の厚さ・墨の載せ方によっては遺物を汚損する可能性があるからきちんと許可をとったうえで、練習を積んだ人間が行うべきである。よって基本的には写真撮影でこれを代用する。とはいえ、拓本の代用として十二分な写真を撮影するには三脚とストロボが必須となるから、フィールドワークの中で見つけて記録していく中ではそのあたりをある程度諦めて光を考えながら露光を決めるのが穏当だと思われる。逆光の下ではおよそうまくいかないから慎重に露光を決める必要がある。また、なるべく多くの角度から撮影をしておきたい。現場では読み取れる気がしていてもPCに取り込むとうまく読めない場合が時折見受けられる。様々な角度から撮影しておけばどれかしらでその文字が読み取れるようになる。
図様・形式上特徴的なものは特に写真に収めて起きたい。石造物の年代は銘文に刻まれてあることが多いが、まれにそうでないものもある。そのようなときに形式上の特徴から判断することが可能な場合もあるからだ。特に五輪塔の火輪や宝篋印塔の屋根の形状などは年代判定に一役買うことが知られているし、文様も時代とともに変化していく。年代のはっきりしている作例であってもきちんと撮影しておくことにより、どこかで年代不明の類似品に出会ったとき年代比定の参考にできるだろう。
例えば今回の一石一字塔は黒々とした硬質の石材で、安山岩製だろうか。関東では近代まで花崗岩製のものはほとんど見られない。多くは安山岩・凝灰岩で、一部に砂岩が用いられる地域がある。中世以前の関東ではさらに細かな地域性を伴うから石材から下限を定めるわけにはいかないが、その表面の加工を見ると非常になめらかである。上野に多量に存在する慶安期や元禄期などの伊豆石製燈籠と比べるとそれは顕著であり、加工技術の進展が想定される。笠はほとんど直線に近い。元は木造建築の形を模したのが石塔類であり、笠は古いものほど緩やかな曲線を描く。近世になると直線に近い硬い線が増える。特に五輪塔などで強く湾曲したものがよく知られる。今回はほとんど一直線で古い時代にはあまり見られない様子であろう。このことも石材の様子と矛盾しない。石材や加工の様子からこの塔は近世の物と考えるのが妥当といえる。
さて、このように記録・観察してきたとしても放っておくと時期に忘れてしまうのが人間である。なるたけ早いうちに記録をまとめてしまわねばならないが、逐一レポートにするとか言ったようなことが必要なのではない。模式図の清書と銘文の読解がフィールドワーク後の基礎作業となる。これらはのちに詳細な調査を行う機会を得た時に必要なものを用意する作業となるから記憶の新しいうちにやっておきたい。
模式図は実測図と異なり正確な縮尺を要しないが、調査時に記録できた限りのサイズは記入しておくべきであるし、実物を見たことのない人でも、ある程度それに則っておおよそ形のイメージがつかめるような図になっている必要がある。全体写真がきちんと正面からの物であればそれを敷きうつしてといった形でもよいと思う。レンズを通すと必ずゆがみなどが発生するから画像の端は特に曲がった線をある程度直しながらとはなるが、作図の難度は下がるだろう。模式図の中には情報を書き込んでいかなくてはならない。どこにどのような銘が彫られているのか、どのような補修が行われているか、どこが破損していて元はどのようであったと思われるか、など重要な情報を図示しておきたい。以降詳細な調査を行う機会があった際にこれを手元において、調査ポイントを忘れないようにできる。
銘文はひとまず何が彫られているのか文字を打ち出しておきたい。基本的に石造物は紀年と願主辺りが彫られていることが多い。さらに情報量が多いものではその由緒なども彫り込まれている。早いうちに文字化しておけば次の調査に進む情報を得やすいし、写真うつりが悪いところがあっても次の調査で調べ直すことができよう。基本的にフィールドワークなどで行う簡単な調査の際には次に詳細な調査を行うとして必要な情報は何なのか、というのをピックアップできるようにしておきたいから、このような基礎作業を早いうちに行いたい。そして出てきた銘文・模式図と現在の所在地を一式そろえておく。できればファイリングなどを行っておきたい。今後の調査に必ず資するだろう。
今回の一石一字塔は傘の下、東面月輪の中に「南無多寶如来」とよめるから四方にある月輪はどれも名号が刻まれているものとみられる。また、連弁を挟んで下の部分は南面に「一石一字 大乗妙典 収蔵之塔」とあってこの石塔は一石一字塔であるとわかる。今回判読した銘文を示しておく。西面から北面、東面と順に文があって、ここにはこの石塔建立の由縁が記されてあるものと見える。西面に「野尻氏女嘗仕 親藩」云々とあり、どこかの藩に仕える野尻氏一族にまつわる供養塔としてこの一石一字塔が築かれたとわかる。東面を見ると「天保甲辰季夏建」とあって天保十五年、1844年の夏に建設されたことが分かる。銘文を確認できるとこの辺りの情報を基盤に情報収集を進めていくことができる。
さて、今回は基礎編としてフィールドワークにおける簡易的な石造物調査とそれにまつわる前後、最低限の調査を実際に行いながら進めた。ふりかえると、所在地に関する基礎調査・写真撮影を中心とする簡易調査・記録した情報の整理を最低限行わなくてはならない。これらはその後すぐに詳細な調査を行うことができなかったとしても石造物の所在・銘文についての基本的な情報があるから、別の時に調査を再開することも、誰かに後を託すことも容易となる。もちろん模式図に考古学的正しさはないから結局計測を仕直さなくてはならないが、だれもが実測図作成の技術を持つわけではない。ひとまず写真のトレースなどでも模式図を作成し特徴を書き込んでいく必要があるのだ。


