最近になって、自分の勉強不足を痛感することが多くなってきた。これではいけないと思い、ちまちま専攻に関わる本を読み漁り始めることにした。私は記憶力が良くないので、学術書を読んだ際にはその内容を紙にまとめることにしている。そうすると、いくぶんか理解が深まっていくのを感じるし、なにより手元に残るから安心感がある。せっかくまとめているので、それをもとにWEB記事を書いてみることにした。まだまだ浅学の身なので、誤読や誤解が含まれている場合がある。その際はお手柔らかにご指摘いただきたい。
初回なので、もう少し個人的な話をさせてもらいたい。私の専攻は社会学である。そのなかでも、とくに「地域社会学」を専門に学んでいる。社会学とはどのような学問かと問われたら、なかなか困ってしまうが、今の私は「人の営みを切り取る」学問であると答えるだろう。当然ながら私たちはひとりで生きていくことはできず、つねに他者と関わりを持ちながら日々の生活をおくっている。その有り様を、多様な視点から、文章として、あるいは地図や図表などとして可視化するという作業が、社会学という学問が行っていることなのではないかと考えている。
人の営みがターゲットとなるため、ひとえに社会学といってもその分野は多岐にわたる。私が学んでいる地域社会学では、地域内の共同体に関わる人や産業に携わる人などが研究対象となる。私が調査しているのは、そのなかでも「旧中間階級」(一般に自営業者と呼ばれる人々)に位置づけられる人々である。
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前置きが長くなったが、そういうわけで当面はこの「旧中間階級」に関する本を読み、記録をつけていきたいと思う。今回取り上げるのは、橋本健二著『中流崩壊』である。
本書の構成は以下の通りである。
第1章 「総中流」の思想
第2章 理想としての「中流」
第3章 「総中流」の崩壊
第4章 実態としての「中流」
第5章 主体としての「中流」
終章 中流を再生させるには
第1章では、「総中流」という思想そのものの起源と、日本における「総中流」論のはじまりについて論じている。日本における「総中流」論のはじまりは、1967年(昭和42)の『国民生活白書』における「国民生活に関する世論調査」である。この調査では、自分の生活態度を「中の上」「中の中」「中の下」と認識している人が全体の9割を占めており、国民の間に「中流階級意識」が増大していることが指摘されている。その後の白書でも同様の結果が得られており、この国民意識と日本経済の発展をもって、日本社会が階級格差のない「中流社会」であり、これは日本固有のものであるとする意見が広まってゆく。
しかし、前述の調査は自分の生活態度を「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」の5段階から選ぶものとなっている。このような形態でアンケートを取った場合、実際の格差の大小にかかわらずおおむね結果が「中」付近に偏るし、日本のみならず諸外国でとった場合でも同様の結果となることが明らかになっている(そもそもこのような形態のアンケートは1940年代のアメリカにおけるものが初出であり、その際も同様の結果が出ている)。すなわち、このアンケートの結果をもって中流社会であると結論づけるのは早計であり、また実態として1970年代以降の日本においては一貫して格差の拡大傾向が続いている、と本書では主張されている。
第2章では、「中流」とされる階級の成立過程とその特徴について述べられている。一般的に「中流」とされる人々は、社会学では「旧中間階級」と「新中間階級」にわけられる。旧中間階級は、土地などの資産を自ら保有しており、資本家階級的な側面を持ちながらも、自らが生産活動に従事するという労働者階級的な側面をあわせ持つ、まさに「中間」的な存在である。先述したように、自営業者が旧中間階級にあたり、商店主・農家・工務店など、幅広い職種が存在する。一方、新中間階級とは会社の管理職にあたる人々のことで、会社を経営する資本家階級と実務にあたる労働者階級との間に立って労働者の管理などを行うという意味で、「中間」的な存在となっている。
また、2章では階級間の社会移動についても触れられている。一般に労働者階級の人々はよりよい待遇を求めて資本家階級への社会移動をめざすものとされる。この際、直接資本家階級へと移動することはできないため、他の階級を経由する必要がある。1つは会社のなかで昇進し、管理職、すなわち新中間階級を経由して資本家階級へ至る道である。もう1つは、独立して自営業、すなわち旧中間階級となり、事業を拡大させながら資本家階級をめざす道である。この2つの道が閉ざされているのではないかと橋本は指摘している。
この点について、2000年代以降の非正規雇用の拡大により、社内での昇進によって社会移動を行うのは以前より困難になっていると推察される。また、商店街のシャッター通り化などに代表されるように、旧中間階級も近年衰退傾向にあり、そちら経由での社会移動も困難を極めるだろう。橋本の指摘の背景にはこのような状況があるものと思われる。
第3章では、「格差社会」がどのように捉えられてきたかがまとめられている。先述のように、1970年代ごろの日本では、格差が拡大し始めていたにもかかわらず、「一億総中流」論によってその格差は楽観視されていた。政府の白書などで格差拡大傾向が指摘され始めたのは1980年代末のバブル景気のころで、空前の好景気によってやはり格差への視線は楽観的なものであった。
バブル崩壊後になってはじめて、一般にも格差の問題が認識されるようになり、その後2000年代半ばには格差の拡大と世代間で階級が継承されることが取り沙汰されるようになる。また、それにともなって自分が「中流」であるという意識も崩壊していくことになる。かつては生活の実態にかかわらず自らを「中流」であると考えていた層が多かったが、2015年にかけて富裕層は自らが上だと、貧困層は自らが下だと認識するように変化しているのだという。
第4章では、「中流」の実態を11のパターンに類型し、その詳細を分析している。ひとえに「中流」といっても、その内訳は多岐にわたる。新中間階級か旧中間階級かによっても大きく異なるし、配偶者の有無や、その就業形態(専業主婦か兼業主婦かなど)によってもその内実は異なるのである。新旧どちらの中間階級においても、共働きのグループでは資産が多く、次いで妻が専業主婦のグループ、妻がパートをしているグループは資産が少なくなるという傾向がみられる。また、新中間階級に属しているグループは総じて社会的活動への貢献が少ないが、旧中間階級に属しているグループは、生活満足度の高くない層であっても社会的活動に積極的に携わる傾向がみられるという。社会的活動というのは町内会などでの活動を意味しており、地域内の共同体における担い手の多くが旧中間階級に属している人々であることが浮き彫りになっている。私の研究テーマにも深く関わる内容であり、とても興味深かった。
第5章では、「中流」とされる人々がどのように政治に参画してきたかということを、クラスター分析をもとに論じている。クラスターは3つにわかれ、橋本はそれぞれを「中流右翼」「中流保守」「中流リベラル」と名付けている。「中流右翼」は格差拡大を認めず、自己責任論を支持する人々で、排外主義的な思想を持っている。自分を人並みより上だと認識している人がほか2つのクラスターに比べ多い傾向にあり、大卒者比率もほかに比べ若干高い。
一方、「中流リベラル」は格差拡大を直視し、所得再分配を支持する傾向にある。また、自分を労働者階級だと認識している人が多く、階層的に上ではないと考え、生活の現状に満足していない傾向にある。「中流保守」はこれらの中間に位置する層で、格差拡大を認識し自己責任論はあまり支持していないものの、所得再分配には積極的ではない。それぞれのクラスターの構成比は「中流右翼」が12.3%、「中流保守」が38.3%、「中流リベラル」が49.3%であるが、「中流リベラル」の大多数が無党派層なのに対し、他2つは自民党支持率が高い傾向にあるという。
第5章から終章にかけて、橋本は格差縮小に向け「中流リベラル」と「中流保守」が歩み寄り、政治的立場を超えて協力することを説いている。さらに、終章にて橋本は、自民党が「中流右翼」的な方向性に向かっていると指摘している。
ただ、コロナ禍を経てこれらの動向は変容してきているのではないだろうか(本書が刊行されたのはコロナ禍が拡大し始めた2020年のことである)。とくに、最近の自民党は「中流右翼」とされる層からの支持を失い始めている。排外主義的政策を掲げる参政党や日本保守党といった政党に「中流右翼」層の支持が流れているのではないかと思われる。それが最近の自民党の支持率低下につながっているのではないだろうか。また、コロナ禍を経て「中流」層の内訳も変化してきているのではないかと思われる。最新のデータに基づいた「中流」分析に期待したい。







