3.トマソンからの逸脱(1984-1988)
そして、初期トマソンの定義によく見られた無用物を“保存”している、という観点はほとんど持ち出されることがなくなっていく。赤瀬川らの現実の物体を優先する態度は結果としてトマソンの限界に向かっていた。トマソンが現実の物件に依拠して、その過剰さから来る質感を求めながらしかし、最低限度の定義として無用の物体であることが求められたことは、トマソン観測から零れ落ちる、過剰さを備えた無価値でない物件の存在に目が向くこととなった。
過剰で有用な物件への視線は『写真時代』連載のうちにも見ることができる。1984年に報告された巣鴨草津湯のエントツがそれである。
さて、これは何だろうか。やはりこれはトマソンではないと思う。三振ではなくて、いちおうバットにボールが当たっている。超芸術というにしては、このエントツは曲がりなりにも伸びていって役に立っている。機能している。世の中に参加してその力を認めてもらっている。その点ではやはり超芸術からは外れるものだと思う。だけどこの律義さと間抜けさとしつっこさといったものは、そのたたずまいにおいて並の超芸術に勝るとも劣らぬものだ。ふつうではないですよ、こんなもの。(赤瀬川1987、p.193)
この物件はその過剰さにおいて超芸術的な質感を有するが、有用でありその点においてこれはトマソンではありえない、と判断されている。超芸術か否か判断するのにその無用性のみを問題としているようにも思われる。また、トマソンでないことは赤瀬川にとってこのエントツの価値を下げうる事柄とみなされない。
このようにトマソンから零れ落ちる物件への視線は他にも見える。同じく1984年発見、北区中十条のアタゴ群は超芸術か否か、その境目にあって赤瀬川から重要な言葉を引き出している。
読者の中には、これがトマソンなのか、それとも駐車防止用物件なのか、それともまた別の機能のあるものなのか、いずれにしてもハッキリしてくれ、という人もいるかもしれない。でも私はもうこれを見ているとその辺の理屈はどうでもいいと思う。とにかくこれは美しい、それでいいではないか。
形が美しいから、というだけではない。配置が美しいから、というだけでもない。そんなこともいろいろあるが、とにかく世の中のさまざまな意味や価値のネットワークに向けてのこの物体の反射角度が美しいのである。その結果としてそれはトマソンということになるのではないか。
だから今までトマソンとして考えてきた物件の構造は、その物件の美しさを確認するための手続きに過ぎないのではないかと思う。そのあたりのことをよーく考えて、なおも皆さんの投稿をお待ちしておるのです。(赤瀬川1987、p.209)
この物件もやはり無用性についての問題が俎上にあげられ、駐車防止用物件としての機能を有するように見えるものが多いとしながら、その過剰さによってトマソン的とも考えている。しかし赤瀬川は判断を下さない。ここではもはや赤瀬川にとってこの物件がトマソンか否かは重要ではなくなったからだ。
トマソンの認定というのが考現学教場以来の学問を模倣した姿勢から逸脱して、自らが何か感得した物件のその美しさの構造を知るための手続きに変容した。もはやトマソンと超芸術的な有用物件をわかたつものは無用であることの他に何もない。
するとこのころの赤瀬川にとってトマソンとは単に社会において無用・無価値であり、個人の審美的にのみ価値のある物件をさしていたといえよう。
一定の基準に基づく物件の探査はこの後も続けられるが、連載中ではついにトマソンと認定できない物件だけを紹介する回さえも出てくる。
さらに芸術新潮での連載「東京封物誌」もはじめはトマソンの紹介となっていたが連載5回目辺りからその観察の対象が、電柱の張り紙広告や新聞の三行広告などへ変化している。
赤瀬川の中で超芸術の本体として「美」への視線が現れていることも注目すべきであろう。赤瀬川は芸術という制度についての問題圏に久しく取り組んできた。1950年代の反芸術からパロディ・考現学、そして初期トマソンがそれにあたる。初期トマソンに見られる定義から翻って考えるならば無用であるが文化的価値を持つとされ保存される物件が芸術であった。
しかし、超芸術探査を通して赤瀬川はトマソンの探求によってこの問題圏の重力を脱し、新たに「美」の探求へ舵を切ってゆく。ここでは超芸術や超芸術隣接物件に共通する特徴としての「過剰さ」「美しさ」について問題とし、芸術とは何かとか超芸術とは何かとかいったようなことは議論の埒外に置かれていく。このような物件を観察する自分の持つ感情についての考察は赤瀬川の超芸術からの逸脱をさらに推進していくことにもなった。
そして赤瀬川は路上観察学へとその活動を変容させた。トマソン連載は続けられるが、ツボ庭・植物は強しタイプなど初期トマソンの持っていた定義からはずいぶん離れた存在が増えていった。
路上観察学は1986年の4月にその活動が始まったものである。ここではトマソン探査のように誰でも参画できる行為ではなく、路上観察学会の面々の活動を披露しあうような形式をとっていた。それぞれの視線によって町から見出されたものの陳列に変容したのだ。このことは『路上観察学入門』における赤瀬川・南・藤森・松田による座談会において南伸坊の発言に現れている。
南 やっぱりアングルだよね。一人一人がみんながアングルが違うよね。そうすると違うアングルを見せてくれるからさ、人の目玉をはめて見えたという感じだから、いろんな人がいろんなことをやりだしたら面白いでしょうね。(赤瀬川ほか編1993、p.147)
それぞれの視線によってまとめられたものを観察することで、路上観察学会のメンバーはそれぞれの視線そのものを観察しているともいえよう。初期トマソンにおいて発見者は芸術家では決してないが、路上観察では観察者はある種の芸術家と呼んでもいいような状態になっている。
そして赤瀬川らはトマソンのもう一つの限界に気が付いてもいた。それはかつて今和次郎と吉田謙吉が突き当たった壁でもある。『路上観察学入門』で考現学の終焉に話が向くと、赤瀬川はその探求が「システム化してしまうとつまんないんだな。」と言っている。トマソンも路上観察学も1980年代後半になると社会から急速に認められていく。自治体から招待されて路上観察を行うなどの状況が現れてくる。本来社会に認められない存在であるトマソンの探求が社会に認められてしまい、価値が生まれてしまう。これは赤瀬川にとって「システム化」の一歩とも取れたのではないかと思われる。このことはトマソンから逸脱しつつあった赤瀬川を再芸術期に移行させる一因ともなっただろうか。
こうして赤瀬川はトマソンの内実と形式という袋小路から抜け出してゆく。赤瀬川にとって重要なのはもはや芸術/超芸術の内実となった。そして、記録と表現のはざまに写真と文学を生み出してゆくことになる。
おわりに
ここまで見てきたように赤瀬川が1972年に初期トマソン三物件を発見してから1988年にトマソンからの逸脱を果たすまでの16年間は、3つの時期によって分けられることがわかった。
1つめは1981年に原爆タイプが発見されるまでの9年間で、無用性と共にそれが保存されていることにトマソンの定義を見出した時期と言える。2つめは1981年の原爆タイプ発見から1984年までの3年間で、保存されていることがトマソンの定義に含まれるか、という点について赤瀬川の中でいくつかの定義づけを試行した時期といえる。3つめは1984年から1988年までの4年間で、トマソンの定義はほとんど無用性のみに絞られ、審美的に価値ある物件の構造を理解するための手法となった。トマソンの定義は赤瀬川の中で変容し、拡張されていたのである。
さて、現在われわれがトマソンを探査しようというときに定義として採用するべきはもちろん第3の定義といえる。自らの審美眼の中で価値があるものと思われるとき、それが社会にとって無用・無価値か考えてみてほしい。
もしそう思われるならそれがトマソンであろう。そしてトマソンは拡張されていく。
【参考文献】
赤瀬川原平『超芸術トマソン』(筑摩書房、1987年)
赤瀬川原平ほか編『路上観察学入門』(筑摩書房、1993年)
【付記】 本稿は広瀬喜六「赤瀬川原平におけるトマソンの概念とその変遷」(2023年)を再録、一部訂正したものである。なお、尾辻克彦は赤瀬川原平の小説家としての名義である。


