赤瀬川原平が没してから早いもので10年が過ぎた。あれは2014年の10月のことだった。私が赤瀬川源平を知ったのはちょうどそのすぐあと、2015年2月に刊行された芸術新潮の赤瀬川原平追悼大特集からであった。学校の図書室で雑誌棚の前のベンチであれを幾度となく読み返した。あの大特集が今の私を形成しているといって過言でない。あれから美術館通いとなり、気が付けば美術史研究で学部を終えようとしている。ひとつ10年の区切りとしてここまでに赤瀬川に関連して私の考えた諸々の事柄を開陳することにしよう。あまり長文は用意できない。私の未熟さゆえだ。以前の記事から特段に考えが進んだというのでもない。個人的な一文である。
赤瀬川とって表現それ自体に籠もる美感が重要であったことは、とくに超芸術期・再芸術期に関するさまざまな言説で知られている。以前の記事で何度も記したとおりだ(なお、芸術期・反芸術期については検討も必要だと考えている。私は作品の特性から、この時期にはすでに美感の在処が赤瀬川のなかで主要な話題であったのではなかろうかと推測している)。
中西 (前略)なにも虚実の問題を扱っているんじゃない、(中略)虚と実のその境目を見せるとかっていうんじゃなくて、何か行動する、行動するにはひとつの……。
高松 口実がいる。
(中略)
赤瀬川 (前略)つまり文章なり小説というのは一本の矢印みたいなものでね、その矢印の先だけに意味があるみたいな頭ね。だから要するに、(評論家は赤瀬川の小説を)ただ床屋に行って帰ってきただけで何もないっていうのね。それはだって床屋へ行くっていうの方便だからさ。矢印の本体にこちらの命があるのに、方便について言われたって……。
「座談会 寂しげで冷ややかな浸透力―フィクションとしてのハイレッド・センター―」『東京ミキサー計画』(PARCO出版、1984)*
このような点でトマソンは赤瀬川の手で終わりを迎えるべきものであった。はじめの頃、トマソンを「無用であるにもかかわらず保存されている物品」と定義していた。しかし、無用性はトマソンの条件であっても重要な点ではないようにみえる。赤瀬川が初期トマソンで常に強調していたのは「テイネイに」保存されている点であった。この「テイネイ」な保存は赤瀬川のなかで拡張され、後期トマソンでは美感の有無がトマソンにおける主要な問題へ変化する。後期トマソンの定義は物件の無用性のみに限られ、収集対象が拡大、美感の有無こそが重要な問題として前面に押し出された。
その機能をセメントでふさがれてしまったのです。それがしかしキレイにテイネイにふさがれているのです。用がなくなったものなのに、まるで用のあるもののように扱われているのです。ちょっと写真をよく見て下さい。右側の塀の上の瓦の一番端の壊れたところがきれいに補修してある。……用もなく打ち棄てられたものなのにきちんと手当をされて保存されているこれらのものは普通ではない。
(赤瀬川原平『超芸術トマソン』p.24)
つまり超芸術というのは当然世界(生産性の社会)には組み入れられない物件だから、どうしてもその発生と同時に廃棄される運命にある。それがしかし不動産的物件の場合には簡単に廃棄するわけにもいかず、否応なく当然世界の一隅に残されることになり、それが私たちに観測される。
(赤瀬川原平『超芸術トマソン』p.81)
人の世の道具としての機能を失い、生産性のネットワークから外れながら、なおも人の手当てを受けて保存されているもの。それは役立たずの度合いでは芸術にまつわる文化的価値をも超えたところの、超芸術的存在物件なのであった。
(尾辻克彦『東京路上探検記』p.13)
読者の中には、これがトマソンなのか、それとも駐車防止用物件なのか、それともまた別の機能のあるものなのか、いずれにしてもハッキリしてくれ、という人もいるかもしれない。でも私はもうこれを見ているとその辺の理屈はどうでもいいと思う。とにかくこれは美しい、それでいいではないか。
形が美しいから、というだけではない。配置が美しいから、というだけでもない。そんなこともいろいろあるが、とにかく世の中のさまざまな意味や価値のネットワークに向けてのこの物体の反射角度が美しいのである。その結果としてそれはトマソンということになるのではないか。
だから今までトマソンとして考えてきた物件の構造は、その物件の美しさを確認するための手続きに過ぎないのではないかと思う。そのあたりのことをよーく考えて、なおも皆さんの投稿をお待ちしておるのです。
(赤瀬川原平『超芸術トマソン』p.209)
そして、これが故にトマソンは終わらねばならなかった。トマソン探査は学術的形態を装う、という表現形式を持っている。一方で、赤瀬川の辿り着いたトマソン探査における問題は人間の持つ美感の問題であった。
しかも、赤瀬川は映画「利休」の脚本執筆経験から、個人の美感の問題について共感できるものとできないものの存在を想定するようになっている。
トマソンはひょっとして国文学ではないか。ヨーロッパに行ったとき、オックスフォード、ロンドン、パリとトマソン探査を試みたのだが、どうも様子が違うのである。無用の階段、無用の門、無用の廂などあるにはあるが、とりわけそれをトマソンという気にはならないのである。もちろん理論的にいってトマソンであるから写真には撮る。でも感激は薄い。
(赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』p.45-46)
感性というのは受動的なものであるが、そこに想像力が含まれていないとひたすらに受動するだけのものになってしまう。誰かが良いと言うものを良いと思う以外にはできなくなってしまうのだ。
(赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』p.45-46)
一方で、学術的形態を装うことは組織的採集/体系的採集を避けようがなかった。個人的な美感の問題に取り組まないかたちでの採集を引き起こす。トマソンの社会的認知に反して赤瀬川らの採取行動はより少人数の形式へと(つまり雑誌投稿から路上観察学会へ、さらにライカ同盟へと)展開していった。
この個人的な美感の問題こそが赤瀬川に超芸術期から再芸術期への変容をもたらした直接の原因であったし、再芸術期の文章・作品で前面に出て表現されている事柄である。ライカ同盟や日本美術応援団、「新解さんの謎」などに通底する基調がこれである。
さて、この雑文に結論はない。問題を提示し見通しを立てるための文章だからだ。問題は赤瀬川原平における美感の問題である。見通しとしては、美感の問題こそがさまざまな口実の裏に隠された赤瀬川の作品を貫く基調であると認めるべきだと考えている。これが赤瀬川原平の芸術を知り、彼の芸術論を理解するための鍵である。
【参考文献】
赤瀬川原平『東京ミキサー計画』(PARCO出版、1984)
尾辻克彦『東京路上探検記』(新潮社、1989年、初出1984-1985年)
赤瀬川原平『超芸術トマソン』(筑摩書房、1987年)
赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』(岩波書店、1990年)
赤瀬川原平ほか編『路上観察学入門』(筑摩書房、1993年)
*中西は中西夏之。高松は高松次郎。赤瀬川原平と三人でハイ・レッド・センターとして1960年代前半に活動していた。『東京ミキサー計画』はこのハイ・レッド・センターについての回顧録であり、巻末に座談会として三人の鼎談が掲載されている。ハイ・レッド・センターが終わると三人の活動は全くバラバラに展開する。不定形の芸術行動を展開したハイ・レッド・センターであったが、中西・高松はそれぞれ絵画へ、赤瀬川は文筆とイラストの混交体へと展開していく。



