赤瀬川原平におけるトマソンの概念について検討すると、赤瀬川のなかでそれが常に揺らぎ拡張し続けるものであったことがわかってくる。このあたりの事情については別の記事にまとめたので、詳細はそちらを参照してほしい。

概略を述べると、赤瀬川が1972年(昭和47)に初期トマソン三物件を発見してから1988年にトマソンからの逸脱を果たすまでの16年間は、3つの時期に分けられる。

1つ目は、1981年に原爆タイプが発見されるまでの9年間で、無用性とともにそれが保存されていることにトマソンの定義を見出した時期。2つ目は、1981年の原爆タイプ発見から1984年までの3年間で、保存されていることがトマソンの定義に含まれるか、という点について赤瀬川が定義づけを試行した時期。それから3つ目は、1984年から1988年までの4年間で、トマソンの定義はほとんど無用性のみに絞られ、審美的に価値ある物件の構造を理解するための手法となっている時期。トマソンは現代芸術のパロディとしての超芸術から、無用物全般へとその意義が拡張され続けていた。

そのときはこの変容の背景についてあまり考えていなかった。しかしトマソンの展開と同じ時期に「座談会 寂しげで冷ややかな浸透力―フィクションとしてのハイレッド・センター―」『東京ミキサー計画』(PARCO出版、1984)においてハイレッド・センターの3人の間で語られた内容に示唆を受けたため、本稿で若干の考察をしてみたい。

中西 (前略)なにも虚実の問題を扱っているんじゃない、(中略)虚と実のその境目を見せるとかっていうんじゃなくて、何か行動する、行動するにはひとつの……。

高松 口実がいる。

(中略)

赤瀬川 (前略)つまり文章なり小説というのは一本の矢印みたいなものでね、その矢印の先だけに意味があるみたいな頭ね。だから要するに、(評論家は赤瀬川の小説を)ただ床屋に行って帰ってきただけで何もないっていうのね。それはだって床屋へ行くっていうの方便だからさ。矢印の本体にこちらの命があるのに、方便について言われたって……。

「座談会 寂しげで冷ややかな浸透力―フィクションとしてのハイレッド・センター―」『東京ミキサー計画』(PARCO出版、1984)

このことをトマソンに当てはめてみると、無用物を無用物として認定するという行動をとるための口実がトマソンの諸概念であって、無用物とはどのようなものであるかは赤瀬川の中で実は主要な問題ではないのかもしれない。トマソン連載という文章それ自体を書くという行為に力点があって、それによって認定される物件は主要な問題ではないのかもしれない。

基本的に、トマソンとは審美的に価値ある物件をその現状を分析することによって無用物であると判断する行為である。その判断という行為にこそ、赤瀬川にとっての重要さがある。無用物を見つけたいのではなく、無用物を無用物であると判断する手続きを行いたいのである、ともいえるだろう。

赤瀬川はその行為に感興を見出した。この感興の判断のあり方をとらえることで、赤瀬川の諸作品、その若き日の彫刻、絵画からオブジェ・パロディ・トマソン・ライカ同盟・縄文建築団へと続けられたあまりにも多様な活動について、一定の解釈を加えることが可能となる。これから何本か稿を分けて考察していきたい。

【参考文献】

「座談会 寂しげで冷ややかな浸透力―フィクションとしてのハイレッド・センター―」『東京ミキサー計画』(PARCO出版、1984)