7月12日、駒澤大学駒沢キャンパスで戦国史研究会第537回例会が開催された。報告者は森脇崇文氏で、論題は「三好三人衆小考~研究の現状と新出史料の紹介~」である。

三好三人衆とは、三好長慶死後に当主となった三好義継を支えた三好長逸・三好宗渭・石成友通の総称である。従来、三好三人衆が結成されたのは永禄8年(1565)頃、結成の目的は松永久秀への対抗のためとされてきた(天野2021)。しかし、本報告で紹介された新出史料によると、永禄5年の段階でこの3人が1つのグループとして認識されていたという。なお、新出史料については後日森脇氏が史料紹介をすると思われるので、本稿で先行して提示することはしない。

新出史料は、三好長慶の嫡男・三好義興が後年の三好三人衆に松山重治・寺町通昭を加えた5人に宛ててしたためた書状である。この史料からは、5人が義興の承認のもとで三好家の意思決定をめぐり談合を行っていたことがうかがえる。これは、のちの三好三人衆のあり方に類似するものである。

さらに、報告者は新出史料にみえる三人衆以外の2人にも注目している。松山重治と寺町通昭は、永禄元年時に石成友通を加えて「三人衆」と呼称されている事例があり(「厳助往年期」)、これを報告者は「元祖三人衆」としている。彼らは名字が三好でないことからも想定されるように、三好氏の被官(直臣)であり、長慶に認められることで奉行人として出世した人物である。

一方、「元祖三人衆」に含まれない三好長逸・三好宗渭は三好氏一門である。このことから、新出史料にみえる5人の集団は、永禄元年以前から三好氏の意思決定に携わっていた「元祖三人衆」に、一門の長逸・宗渭を加えることで決定内容に重み(権威・正当性)を加えることを意図したものと、報告者は評価している。また、長逸・宗渭を加えた背景としては、永禄3年に義興が長慶から家督を相続したことで、若年の義興を支えるために一門を意思決定に加えたのではないかとしている。ちなみに、当主が若年の場合に一門が補佐するというのは、この時期では一般的にみられる体制である。

そのうえで、こうした前提を背景として、本来の三好氏の正当な政権担当者はこの5人の集団であるという意識のもとから、のちに台頭してきた松永久秀への反発心が生まれた。これらが、永禄8年以降の三好三人衆の動向につながっていく、と報告者はまとめている。

以上のように、本報告は、永禄8年以降の三好三人衆が主流派の松永久秀に反発する派閥ではなく、むしろ本来的にはこちらが主流派であったことを明らかにした。ただし、いくつか課題も残っている。

まず、永禄8年以降の三人衆は実際に長期にわたって3人が一体となって行動しているため、1つの勢力・集団とみることに問題はない。しかし、永禄元年の「元祖三人衆」については単発の史料に登場するのみである。つまり、このときに特定の問題に対処する担当者として選ばれたのが、松山重治・寺町通昭・石成友通の3人であり、恒常的に三好氏の意思決定をこの3人で行っていたかどうかは不明である。

また、新出史料では5人が1つの集団として認識されているが、永禄8年以降は松山重治と寺町通昭が脱落している。松山重治については、永禄6年に出家していることが確認され、これをもって隠居したとも捉えられるが、寺町通昭についてはまったくの不明であり、いつ、なぜ意思決定の集団から抜けたのかが気になるところである。

今回の成果が、これらの問題の解明につながることを期待したい。

【参考文献】
天野忠幸『三好一族――戦国最初の「天下人」』(中央公論新社、2021年)