織田権力の内部構造
日本史上一番のヒーローともいえる織田信長。彼は足利義昭を京都から追放して、足利将軍に代わる「天下人」となり、天下一統を進めていった。従来、織田信長は独裁者として織田権力(一般的には織田政権とされる)の頂点に君臨していたと評価されてきた。しかし、広大な領域を1人で支配することなど不可能に近く、一門や家臣によって分掌されている権限があったことが近年明らかになってきている。
こうした近年の研究成果のうち大きなものとしては、『織田権力の領域支配』(戦国史研究会編2011)があげられる。しかし、これはあくまでも論文集でありハードルが高いことに加えて、取り上げられている論点も9個しかない状態である。
これに対して、織田信長の家臣について網羅的に記述したものとして、『織田信長家臣団人名辞典』(谷口2010)がある。こちらは1458人が立項されており、信長の家臣としてはほぼすべての人物を取り上げているものになる。一方で、1人1人に対する記述は当然ながら少なくなってしまっている。
本書は、こうした2種類の書籍の中間に位置するものと捉えられる。前者より多くの人物を立項する一方、後者のようにやみくもに取り上げるのではなく、織田権力全体に対して比較的大きな影響力を与えた人物を抽出しているわけである。さらに、一般書であるため多くの人にとっても手に取りやすい書籍となっている。目次は以下のとおりである。
織田信長――理想を追い求めた〝戦国の天下人〟(柴裕之)
織田信忠――本能寺の変で散った天下人の後継者(木下聡)
織田信雄――織田家の栄光と凋落を味わった信長の二男(柴裕之)
織田信孝――父・信長の背中を追い続けた勇将(柴裕之)
織田信兼・長益―信長に仕えた忠実な弟たち(小川雄)
織田信澄――知られざる「本能寺の変」の犠牲者(鈴木将典)
織田秀信――清須会議の中心となった人物のその後(木下聡)
佐久間信盛――筆頭家臣の顔と悪評の顔(山下智也)
原田(塙)直政――信長の畿内支配の要となったキーパーソン(天野忠幸)
明智光秀――日本史上で最も有名な「裏切り者」の実像(鈴木将典)
柴田勝家――「北国表警固」を担った重鎮の苦闘(丸島和洋)
羽柴秀吉――バランス感覚に長けた信長家臣団のキーパーソン(羽柴亜弥)
惟住(丹羽)長秀――股肱の信長家臣から秀吉傘下へ(功刀俊宏)
滝川一益――数々の武功をあげるも苦しい晩年を過ごす(青木裕美)
前田利家――味方にしては頼もしき人(大西泰正)
佐々成政――信長・秀吉に重用された百戦錬磨の「武者の覚え」(萩原大輔)
池田恒興――信長の乳兄弟から清須会議の四宿老へ(下川雅弘)
河尻秀隆――甲斐一国の主から非業の死を遂げた老練の武将(鈴木将典)
森可成・長可――信長の覇業を支えた森親子(石川美咲)
九鬼嘉隆――織田・豊臣を支えた海賊大名(小川雄)
蜂屋頼隆――織田氏の家臣から豊臣大名への躍進(千葉篤志)
松井友閑――堺代官や外交など多岐に活躍した信長の側近(平井上総)
村井貞勝――都市支配で才能を発揮した〝天下〟の代官(木下昌規)
堀秀政――信長・秀吉に信頼された「名人」(角明浩)
菅屋長頼――北陸支配にも関与した信長側近の中核(角明浩)
長岡(細川)藤孝――さまざまな葛藤を乗り越え細川家の基盤を築く(谷橋啓太)
荒木村重――覆される「愚将」のイメージ(中西裕樹)
高山右近――摂津国から台頭した不屈のキリシタン武将(下川雅弘)
筒井順慶――信長も配慮した大和武士兼興福寺僧(天野忠幸)
浅井長政――〝悲劇の英雄〟の実像(新谷和之)
本書の内容
立項されている人物は、おもに以下の4つに分類することが可能である。
- 織田氏(織田信長~織田秀信)
- 織田権力の宿老(佐久間信盛~滝川一益)
- 2以外の信長に取り立てられた人物(前田利家~森可成・長可、蜂屋頼隆、村井貞勝~菅屋長頼)
- もともと独立した領主、あるいは別の家臣だった人物(九鬼嘉隆、松井友閑、長岡藤孝~浅井長政)
1は、信長の血族として信長の代行を務める立場にあった人物といえる。とくに、織田信忠(嫡男)は織田家の本国である尾張・美濃を治めた人物であり、天下統治は当然天下人である信長が担当していたが、織田家の領国支配は信忠が中心であったとみてよいだろう。また、織田信雄(二男)と織田信孝(三男)は、それぞれ伊賀攻め・四国攻めを担当しているように、信忠とともに畿内周辺の統治を担う重要人物であった。
ただし、こうした一門への権限移譲は織田権力の末期になって生まれた体制であり、ここで立項されている人物の多くが、むしろ本能寺の変後の活躍が目立っている。たとえば、信雄は小牧合戦で、信孝は柴田勝家と組んで羽柴秀吉と敵対したことが有名であるし、豊臣政権の成立につながるという点ではむしろ織田期よりもこちらの動向のほうが重要ともいえる。また、織田秀信は清須会議におけるキーパーソンとして登場するものの、その時点ではいまだ元服を済ませておらず「三法師」と名乗っていた。織田長益(叔父)は茶人・有楽斎として知られるが、これも豊臣期における活動がおもなものとなっている。
このように、織田期における織田氏一門の活躍は相対的に少ないものであるが、だからといって織田氏の血統の価値が低いというわけではない。むしろ、織田氏が天下人の家から転落し、羽柴氏・徳川氏が天下人となった時期においても、織田氏の血統が重視されていたと評価するべきである(柴2025など)。
2は、織田領国の地域支配を管轄した人物であり、かつ有力な戦国大名との取次や、断交後の戦争を担当した軍事司令官でもある。従来、彼らは信長の代官として、個人の権限はほとんどないと認識されていた。しかし詳細な史料の検討にともなって、信長から多大な権限を委任されて、一円的な領域を支配していた「織田大名」と評価するべきとされている。なお、「織田大名」についての詳細な検討は、前述した『織田権力の領域支配』を参照されたい。
3は、1・2の与力大名となって小規模な領域を支配したり、支城を管理したりした部将がほとんどであるが、これに該当しない人物が3名いる。村井貞勝・堀秀政・菅屋長頼の3人である。貞勝は日本の「首都」である京都の代官であった。また、秀政・長頼は信長の近習(側近)を務めていた人物である。ただし、秀政は豊臣期に大名となっており、長頼は本能寺の変直前に越前を与えられる予定であったことが史料からわかっている。以上のことから、信長が死ななければ織田期においても両者は領域権力化していたものと考えられ、その場合には前田利家~森長可らと同質の立場になっていたといえるだろう。
4も、3と同じく領域支配者とそれ以外に分けることができる。後者に該当するのが堺代官を務めた松井友閑である。友閑が支配した堺は、ガスパル=ヴィレラに自由都市・ベネチアに例えられたことで有名な、会合衆を中心とした商人によって支配されていた都市である。この地を支配した友閑は、前述の村井貞勝と同様に戦争よりも都市支配で活躍した人物であり、この2人は本書のなかでもとくに異彩を放っているといえるだろう。
また、それ以外の人物は、もともと一定の領域を支配していたり、城を預かっていたりした人物が政争によって信長に従った存在であり、いわば国衆に近しい存在といえるだろう。その顔ぶれのおもしろい点は、約半数にあたる3人(荒木村重・高山右近・浅井長政)が信長を裏切った経歴を持っていることである。これらの裏切りを信長の個性に引き付けてみる見方もあり(金子2022)、もちろんこの評価自体は筆者も賛同しているところである。しかし、それ以上に彼らの行動は国衆の論理(黒田2022)の延長上にあると評価できるのであり、この点でも織田権力が戦国大名権力と同質のものであったことを示しているといえるだろう。
本書の課題
最後に、本書を一読して感じたことを2点ほど記しておきたい。
まず、人物の選定基準についてである。これは『戦国武将列伝』シリーズのほかの巻でも、それぞれ編者が誰を立項するかで悩んでいることがうかがわれるので、簡単に非難できる話ではないことは承知している。しかし、それでも取り上げてほしかった人物が3名いる。
それは、平手政秀・林秀貞・森成利の3人である。前者2人については、信長が元服した当初、彼の宿老として付けられていた人物である。政秀は天文22年(1553)に自刃してしまったため、天下人となった信長を支えていたわけではない。しかし、この自刃自体が信長に関するエピソードとしては有名なものであり、本書で取り上げてもよいものと思われる。一方、秀貞は天正8年(1580)に佐久間信盛とともに信長から突如追放されるまで、織田家の重臣であった人物である。こうした意味では、織田権力の権力分掌を考えるうえで秀貞の存在も外せないのではないだろうか。実際、大河ドラマ「豊臣兄弟」でも林秀貞は登場しているわけである。
また、森成利は本書で立項されている森長可の弟であるが、知名度でいえばこちらのほうが上であろう。結果的に本能寺の変で死去してしまったため大きな活躍はしていないのかもしれない。しかし、仮に本能寺の変が起きずに織田権力が残存した場合、前述したように信長の側近であった堀秀政・菅屋長頼らが領域権力化していったと想定されるわけで、その後に信長の側近の筆頭となるのはおそらく森成利ではなかっただろうか。そうしたポテンシャルも含めて、本書で立項してほしかった人物である。
なお、『戦国武将列伝』シリーズのほかの巻でも、明らかに立項するべき人物が立項されていないという事例はしばしばみられる。彼らについては、『戦国武将列伝』補遺編での立項を期待しておきたい。
次に、立項する人物の名称についてである。信長は天正3年に有力な家臣の名字を一斉に改めている(塙→原田、丹羽→惟住、木下→羽柴など)。こうしたなかで、明智光秀も「惟任」名字を貰っていることは広く知られていることであろう。
しかし、原田直政・惟住長秀についてはその名字で立項されているのに対して、光秀は惟任光秀ではなく「明智光秀」として立項されている。これは一般に膾炙した名称を優先した結果であろうが、だとしてもほかと同じように「明智(惟任)光秀」などとしてもよかったように思われる。そもそも、知名度という点でいえば惟住長秀・長岡藤孝も「丹羽長秀」「細川藤孝」が一般的であり、光秀だけ特別視するのも基準が不明である。
これについては、(「豊臣秀吉」ではなく)羽柴秀吉と同様に、学校教育の段階から「惟任光秀」として登場させることが重要である。教科書では、聖徳太子を「厩戸王」に変更できたのだから、「羽柴秀吉」「惟任光秀」への変更もいつか実現できるだろうと期待している。
【参考文献】
金子拓『裏切られ信長 不器用すぎた天下人』(河出書房、2022年)
黒田基樹『国衆 戦国時代のもう一つの主役』(平凡社、2022年)
柴裕之「有力大名家を〝羽柴家親類〟に取り込む」(河内将芳編『秀吉と豊臣一族研究の最前線』山川出版、2025年)
戦国史研究会編『織田権力の領域支配』(岩田書院、2011年)
谷口克広『織田信長家臣団人名辞典』(吉川弘文館、2010年)




