今回の記事は、引間城(浜松城。静岡県浜松市)主だった飯尾(いのお)氏、遠江の要衝の高天神城(静岡県掛川市)主だった国衆の小笠原氏についてです。

飯尾氏

飯尾氏は浜松荘の領主だった三河吉良氏の家臣で、浜松荘の「奉行」を務めていました。戦国時代には遠江に攻め込んだ今川氏に味方し、遠江守護の斯波方についた大河内氏らと戦います。

今川軍が引間城を攻略し、遠江の支配を確立させると、吉良氏の下を離れて今川氏に従属しました。以後、飯尾氏は浜松荘の大部分を「引間領」として支配し、今川氏の従属国衆となります。

飯尾乗連は今川軍の大将として三河へ侵攻し、雪斎らとともに三河の支配に関わりました。特に西三河には旧主の吉良氏がいたため、その伝手を頼って現地の寺社から保護を求められています。また、今川氏の「年寄」として、幕府や朝廷との外交で交渉役を務めました。

しかし、今川義元が桶狭間で討死した後、飯尾連龍は今川氏から離反し、ほかの遠江国衆も巻き込んで、大規模な反乱(遠州忩劇)に発展します。飯尾氏の討伐に乗り出した今川氏真は、いったん連龍を「赦免」しますが、駿府へ呼び出された連龍は今川氏に「成敗」されました。

残された飯尾氏の家臣たちは徳川家康に救援を求めますが、氏真は彼らを降伏させ、引間領を今川氏の直接支配下に置いたことで、今川氏の従属国衆だった飯尾氏は滅亡しました。なお、連龍の妻(お田鶴の方)が今川軍と戦って討死したという話は後世の創作です。

飯尾乗連・連龍父子については、柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』(戎光祥出版、2024年)に詳しい話(粕谷幸裕「飯尾連龍ーー遠州忩劇を引き起こした境目国衆」)が載っています。

小笠原氏

続いて、小笠原氏は室町時代まで遠江守護の斯波氏に従属していましたが、駿河の今川氏親が遠江へ進出した後、小笠原長高が馬伏塚城(静岡県袋井市)主に任命され、遠江中部の浅羽荘を与えられたのが始まりとされます。

長高の子の春茂(春義)は、天文5年(1536)の「花蔵の乱」で今川氏の重臣だった福島氏が没落した後、高天神城に本拠を移し、春茂・氏興・氏助(信興)の三代にわたって、笠原荘の一帯を支配しました。なお、春茂の実名が福島氏の通字である「春」を用いていることから、福島氏の一門か家臣であった可能性が指摘されています。また、氏興・氏助は今川氏から「氏」の一字を与えられ、今川氏の一門として処遇されていました。

永禄11年(1568)に三河の徳川家康が甲斐の武田信玄と手を結んで遠江へ攻め込むと、小笠原氏助は一門の説得を受けて徳川氏に従属しました。その後、元亀3年(1572)に武田信玄が遠江へ攻め込むと氏助は武田氏に降伏しますが、信玄が死去すると再び徳川氏に帰参しています。

天正2年(1574)に武田勝頼は遠江へ侵攻し、小笠原氏助が籠もる高天神城を攻めました。武田軍と小笠原軍の間で交渉が行われた後に、高天神城は開城しましたが、これに反対した一族の義頼らは城を出て徳川氏に仕え、馬伏塚城に入りました。ここに小笠原氏は分裂し、武田氏から「信」の一字を与えられて「信興」に改名した氏助と、徳川氏から小笠原氏の惣領として認められた義頼に分かれて戦うこととなったのです。

しかし、天正3年の長篠合戦で武田軍が大敗したことにより、徳川方との最前線に居城を持つ小笠原信興は窮地に立たされます。そこで武田氏は、信興を後方の駿河へ「転封」し、高天神城を直接支配下に置きました。

天正10年に武田氏が滅亡した後、信興は関東の北条氏の下へ逃れましたが、天正18年に北条氏が滅亡したときに処刑されました。一方、信興が武田氏に降伏した際、徳川方に残った一門の小笠原義頼らは、後に徳川家康の十男頼宣に附属され、子孫は紀伊藩徳川家に仕えました。