山川出版社/2025年12月刊/B6変型判/296ページ/1980円/ISBN:9784634152588

はじめに

羽柴秀吉は農民から天下人にまで出世した、いわゆる「下剋上」の代表ともいえる人物である。そのため、かつては豊臣政権の権力構造を考える際に、秀吉個人の性格が強調される傾向にあった。しかし、全国政権である豊臣政権がすべての政策を秀吉個人で決定し遂行することは、物理的に不可能である。この点、以前から注目されてきたのが奉行・吏僚層による大名との取次行為である。

また、近年の中世史研究では、全体的に血統・一門への関心が強まりつつある。その代表例といえるのが谷口雄太氏による一連の足利一門研究(谷口2021・2022)であろう。さらに、戦国大名家における一門の役割についても、個別的な検討が積み重ねられてきている。

一方、豊臣政権における羽柴氏一門の位置づけは、これまでほとんど検討されてこなかった。もちろん、まったくないわけではなく、過去の重要な論考については『羽柴秀吉一門』(黒田編2024)にまとめられている。しかし、逆にいえばこの1冊に収まる程度しか存在しないということである。

本書は、こうした豊臣政権研究の課題である羽柴氏一門(本書では「豊臣一族」とする)について、総合的に分析したものとなっている。以下、目次を確認したい。

第Ⅰ部 秀吉は血縁をどういかしたのか
第一章【秀吉像の変遷】秀吉の出自はどういわれてきたのか 竹内洪介
第二章【秀吉の実弟】秀吉の〝後継〟を期待された秀長の足跡 播磨良紀
第三章【秀吉の甥】豊臣秀次とその弟たち(小吉秀勝・秀保)の実像 尾下成敏
第四章【秀吉の子】秀頼「出生」の謎と、家康との知られざる関係 平野明夫

第Ⅱ部 一族の果たした役割
第五章【高台院〝子飼の者〟】変転する豊臣恩顧の大名たち 水野伍貴
第六章【秀吉の妻たち】「呼称」からみた秀吉との関係――淀殿・松の丸殿 河内将芳
第七章【秀吉の養子戦略】於次秀勝・小早川秀秋・結城秀康、それぞれの処遇 光成準治
第八章【秀吉の養女と婚姻戦略】有力大名家を〝羽柴家親類〟に取り込む 柴裕之

第Ⅲ部 秀吉研究をめぐる新論点
第九章【天変地異と秀吉政権】二つの大地震と「恠異」は社会になにをもたらしたのか 河内将芳
第十章【秀吉時代の金・銀・銭貨の流通】貨幣史からみた〝黄金太閤〟の虚像と実像 千枝大志
第十一章【秀吉の名字・姓】「羽柴」「豊臣」には、どのような意味があるのか 堀越祐一
第十二章【世界認識と対外戦略】宣教師側からみた「南蛮外交」の実像 清水有子
第十三章〈特論①〉【秀吉の政治・経済・大名統制政策】太閤検地、刀狩り令、武家官位制は画期的な政策だったのか? 平井上総
第十四章〈特論②〉【秀吉の軍事・外交政策】惣無事令・朝鮮出兵・豊臣水軍研究の現在 長屋隆幸

第Ⅰ部では狭義の羽柴氏(天瑞寺殿の子孫)の位置づけ、第Ⅱ部では広義の羽柴一門(天瑞寺殿のいとこの子孫や妻・養子など)の役割がまとめられている。第Ⅲ部は、一族の役割ではなく豊臣政権の政策に関する論点となっている。第Ⅲ部については、本書の姉妹本である『秀吉研究の最前線』(日本史史料研究会編2015)でより詳細に触れられているので、こちらもあわせて参照されたい。

1.第Ⅰ部の内容

第Ⅰ部では、基礎的な事実について重要な指摘がいくつかあった。まず、秀次の父親の名字が「長尾」であることが判明したのである。これまで、秀次の父親については、名字も実名も不明であった。そのため、名字は秀次が三好氏に養子に入っていたことからの推測で「三好」が用いられ、実名の代わりに法号「常閑」が用いられることが多かった。しかし、今回、名字が「長尾」であることが判明したことによって、以後は「長尾常閑」とするのが正確な表記となるだろう。

もう1つ注目されるのが、秀頼の花押が徳川家康と類似しているという指摘である。これによって、秀頼期羽柴氏が徳川氏の親類に位置づけられていた可能性が浮上したのである。このことは、関ヶ原の戦いから大坂の陣までの徳川氏・羽柴氏の関係を、対立関係を前提として考えるよりも、協力関係を前提として考える近年の風潮(小川2022など)にも整合的な理解といえるだろう。

なお、参考として慶長期の徳川一門について考察したい。慶長10年(1605)以降、徳川氏の家長は家康が、当主は秀忠が務めていた。また、家康には合計11人の男子が存在した。

このうち、松平信康(天正7年〈1579〉没)・結城秀康(慶長12年没)・松平忠吉(慶長12年没)・武田信吉(慶長8年没)・松平松千代(慶長4年没)・松平仙千代(慶長5年没)は、ここに示したように慶長12年以前に死去している。徳川義直・徳川頼宣・松平頼房は家康が死去する元和2年(1616)時にはそれぞれ16歳・15歳・14歳である。それ以前にすでに元服してはいたものの、慶長期において江戸幕府を支える一門としては未熟であった。

さらに、家康の孫世代では、元服していた男子は松平忠直(秀康の子)のみであり、松平忠昌(忠直の弟)が大坂の陣直前にやっと元服するという状況であった。つまり、慶長12年から慶長19年にかけて成人している徳川一門は忠輝と忠直のみだったのである。そして、のちに忠輝・忠直は両者ともに乱行によって改易となっている。もちろん、改易という結果から遡及させて慶長期の位置づけを想定するのは問題もあるが、けっして安心できる状況ではなかったことは確実であろう。

一般的に、家康は室町幕府・豊臣政権の失敗をふまえて、御三家を創設したとされてきた。しかし、慶長期の徳川一門は意外なことに層が薄かったのである。このようにみると、この時期の徳川氏にとって羽柴氏の存在はより積極的に評価することができる。誤解を恐れずにいうならば、ちょうど秀吉生前時(とくに秀次事件後)の羽柴氏にとって、家康が「羽柴氏当主にもっとも近い立場」(黒田2023)であったように、慶長12年~慶長19年の徳川氏にとって秀頼は「徳川氏当主にもっとも近い立場」であったと表現できるかもしれない。

実際、家康は家督を秀忠に相続する際に、これまで自身が任官してきた征夷大将軍職と右大臣職を辞め、前者を秀忠に、後者を秀頼に譲っている。したがって、秀頼は武家官位上、秀忠と同格の存在として扱われていたのである。

また、大坂の陣と忠輝・忠直の改易は有力な徳川親類がこぞって脱落した事件といえる。したがって、今回の検討に基づくならば、これらの事件は豊臣政権における秀次事件に匹敵する、江戸幕府にとっての危機だったとも捉えられる。もちろん、徳川氏にはまだ義直・頼宣・頼房が残っているし(秀次事件後の羽柴氏には小早川秀秋しか残っていない)、すでに家督を継いでいた秀次と、あくまでも一門にすぎない秀頼・忠輝・忠直は政治的立場に差があるなど、相違点も存在する。しかし、元和年間に親類の処罰がつづいたことは、これまで以上に注目する必要があるだろう。

2.第Ⅱ部の内容

第Ⅱ部では、これまでは縁者としての側面があまり強調されてこなかった人物について大きく取り上げられている。たとえば、第五章で取り上げられている福島正則と青木一矩は、(とくに正則は)親類という点よりも豊臣譜代大名(取り立て大名)で、かつ武断派としての側面が注目されてきたように思う。これに対し、本章では縁者としての側面を強調した内容となっている。

また、第八章では、羽柴氏・徳川氏にとって織田氏の血統が重要な役割を果たしていたことが丹念に検討されている。以前から、豊臣政権は織田信雄を内大臣にして優遇するなど、織田氏を旧主であり前代の天下人として尊重してきたことは知られていた。しかし、今回の検討では、それが織田氏個人に対する儀礼的な優遇だけではなく、婚姻・養子縁組などを通じて羽柴氏・徳川氏にも織田氏の血統を取り込もうとしていた、つまり家全体での対応であったことが明らかになった。

このことは、さらにさかのぼってかつて武家の頂点に存在していた足利氏について考えるうえでも非常に示唆的な内容である。織田氏と同じように、豊臣政権は足利義昭を准三后にし、足利頼淳を「鎌倉左兵衛督」と呼称するなど、やはり儀礼的に尊重していたことは知られている。また、近年では秀吉の書札礼において、信雄と頼淳が同格であったことも指摘されている(柴2025)。

また、月桂院殿(頼淳の娘)は秀吉の別妻となっている。この点は、本書の指摘に基づくならばもっと積極的に評価していくべきことかもしれない。このように、足利氏と織田氏は類似する点が多くみられるのである。豊臣政権・江戸幕府にとって足利氏・織田氏(江戸幕府にとっては羽柴氏も)がどのような位置づけであり、どのような役割が求められたのかは今後の課題である。なお、現状の筆者の理解については旧稿(拙稿2025)でまとめているため、あわせて参照されたい。

3.第Ⅲ部の内容

第Ⅲ部は、一族ではなく政策が論点となっている。前述のとおり『秀吉研究の最前線』で詳しく触れられているが、この本が出てからすでに10年以上経過しており、その間に進展した研究成果が本書で反映されているかたちとなっている。

個人的におもしろかったのは第九章である。天変地異が民衆の豊臣政権に対する評価に影響を与えたというものである。もちろん天変地異だけではとくに問題にはならないだろうが、それまでに民衆が不満を抱える要素があり、そこに天変地異が重なって豊臣政権に対する期待がさらに下がったのではないかというのは納得させられた。

また、惣無事令に関しても新たな議論が出ていることは注目される。第十四章で取り上げられているように、これまで広く惣無事令と捉えられてきた豊臣政権の政策について、戸谷穂高氏は「天下静謐」令と「惣無事」令に細分化するべきであると唱えている(戸谷2023)。戸谷氏はその区別について詳細に論じているが、概要は以下のとおりである。

  • 「天下静謐」令:豊臣政権が主体的に大名の支配領域を決定し、それを強制することで平和を達成する
  • 「惣無事」令:戦争によって支配者が変わった地域について、すべて最初の領主の支配地域とすることで、平和を達成する

前近代は法治国家ではないので、法令の記述に基づいて政策が行われることはほとんどなく、事案ごとに対応が変わっていくのは当然である。そのため、広義の惣無事令について、実際に適用された個別事例の対応が一致しないのは当然のことである。一方、相違点のみを捉えて全体像把握ができなくなるのは生産性がないため、共通部分を見出していくことは重要なことと考えられる。

これまでの惣無事令(広義の惣無事令)では、「平和を達成する」ための法令という共通項が重視されていたことで、その区別がまったくなされていなかった。しかし、戸谷氏はその目的のための手段として、「豊臣政権からの強制」と「現状の秩序を優先する」と大きく2つが存在したことを指摘したのである。

双方ともに共通部分を見出すという点では意義のある議論であるし、個人的には両者の理解は矛盾するものではないと考えている。広義の惣無事令が、大きく「天下静謐」令と狭義の「惣無事」令に区分でき、さらに事案ごとに臨機応変に対応していた、と3段階の理解をすれば整合的に捉えられると理解している。

おわりに

以上、本書において、個人的に重要だと感じた論点を取り上げてきた。最後に、今後の歴史学における血統研究・一族研究の課題を示しておきたい。

本書で言及されているとおり、一族の存在は当主の代わりを務めることが可能な人物である。そのため、当主1人で扱いきれない膨大な業務がある場合には、その一部を一族が分担することで、円滑に遂行していたのである。逆に、当主に対抗しうる立場でもあり、そのため一族の存在は内紛に発展する危険性も有していた。

いずれにしても、基本的に一族の存在は単に「当主と血縁的に近しい存在」という点で儀礼的に優遇されていたというだけではなく、協調関係でも、敵対関係でも政治的に重要な役割を担っていたのである。これは戦国時代に限らず、たとえば摂関政治においても藤原氏は天皇の外戚になることで実権を握ったのであり、鎌倉幕府でも、北条氏が執権・得宗として幕政を主導できたのは、根本的には初代将軍・源頼朝の本妻・北条政子の実家であるという点が大きかった。

しかし、これまでの足利一門研究では、儀礼面・権威面のみの優位性が強調されており、権力面は軽視される傾向にあった。もちろん、権力面だけではなく権威面にも注目するべきであるという視点の転換は、当時の研究状況のなかではとても重要なものであっただろう。また、必ずしもすべての一族が同様の役割を果たしていたわけではないから、足利一門は例外であった可能性もあるだろう。

けれども、前近代の日本社会が本質的に一族の権力が重視されてきている以上、足利一門についてもあらためて権力面について検討する必要があるものと思われる。

【参考文献】
小川雄「「二重公儀」の実像――徳川氏・羽柴氏の協調関係とその破綻」(渡邊大門編『江戸幕府の誕生 関ヶ原合戦後の国家戦略』文学通信、2022年)
黒田基樹「羽柴(豊臣)政権における家康の地位」(同編著『徳川家康とその時代〈戦国大名の新研究3〉』戎光祥出版、2023年)
黒田基樹編『羽柴秀吉一門〈シリーズ・織豊大名の研究13〉』(戎光祥出版、2024年)
柴裕之「喜連川足利家の誕生」(黒田基樹編著『足利義氏・古河姫君〈古河公方の新研究3〉』戎光祥出版、2025年)
谷口雄太『〈武家の王〉足利氏 戦国大名と足利的秩序〈歴史文化ライブラリー525〉』(吉川弘文館、2021年)
谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏〈歴史文化ライブラリー559〉』(吉川弘文館、2022年)
戸谷穂高『東国の政治秩序と豊臣政権』(吉川弘文館、2023年)
日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(洋泉社、2015年)
拙稿「武家政権の正当性と〝古典〟の体現」(『ゆまにすと』2、2025年)