筑摩書房/2025年9月刊/新書判/240ページ/1012円/ISBN:978-4-480-07703-5

はじめに

本稿は2025年9月に刊行された渡邊大門氏著『羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯』の紹介である。今年の大河ドラマが『豊臣兄弟!』ということもあり、秀吉・秀長に関する書籍が多く出版されている。本書もその1つであり、題名の通り秀長の生涯に関する書籍となっている。大門氏は、本書の目的として以下の3つの柱を立てている。

  1. 豊臣政権において、秀長が果たした役割
  2. 大名としての秀長
  3. 秀吉の天下統一の過程において、秀長が果たした役割

これら3つの柱を中心に検討していくことを目的としている。まず、以下に本章の目次を掲げる。

はじめに
第一章 秀長の誕生と家族
第二章 中国計略への出陣
第三章 秀吉に従い転戦
第四章 豊臣政権下における秀長
第五章 四国征伐と大和支配
第六章 九州征伐と秀長の最期
おわりに

本書の内容

はじめにでは、秀長のイメージやわずかながらの先行研究紹介、そして本書の目的について触れている。

第一章においては、秀長というよりも、秀吉の出自に関することがメインとなっている。秀吉に関する史料(『太閤記』『関白任官記』『太閤素生記』など)から、生年や秀吉の父について考察を加えている。その他にも秀吉の出自がどうであったのか、ということや宣教師からみた秀吉がどうであったのかについて述べた後、秀長の誕生について記している。秀長の父に関しては、竹阿弥説と木下弥右衛門説があり、それらについて考察している。これらの出自に関する検討の結果、秀吉が貧しかったのだから、秀長も貧しかったとしている。

第二章では、中国地方における秀吉と秀長の動向について述べている。秀吉による中国地方の攻略において、但馬国の竹田城(兵庫県朝来市)を攻略しており、そこの城代に秀長を置いていることから、秀長は秀吉の中国計略に付き従っていたと述べている。また秀長は柴裕之氏の研究によると、秀長は朝来・養父・気多の三郡を支配している。

第三章では、秀吉に従って転戦した内容について述べている。天正10年(1582)の備中高松城(岡山県岡山市)攻めに秀長は秀吉に従い参加しており、4月には秀吉は秀長に掟書を与えており、内容から秀長は秀吉軍が宇喜多氏の居城があった岡山城下に在陣した際、治安維持の一端を担っていただろうとしている。

本能寺の変で信長が死んだという報は、どのように秀吉の陣にもたらされたのかという説において、秀長が関わっていたとする説がある。「夜久文書」が、伝達ルートをうかがわせる史料であると藤田達生氏によって指摘された。藤田氏はこの書状の年次を情勢から勘案して天正10年としており、この文書が出された背景などから、報せが京都―丹波―但馬―姫路―備中高松城のルートでもたらされたのではないかとしている。しかし、この指摘には藤田氏の想像が多分に含まれており、かなり疑問がのこると大門氏は述べている。

清須会議後、丹波の支配は秀長と秀勝、家次といった秀吉の縁者によって支配されており、秀長は福地山の支配をしている。

第四章では、豊臣政権下における秀長について書かれている。天正11年には、秀長による丹波支配の形跡が見られなくなる。秀長は姫路城を拠点に飾東郡・多可郡・加東郡を支配している。

紀州征伐では、秀長が中心的役割を務めており、太田城(和歌山県和歌山市)の攻防の際には副将的な立場で出陣していた。

天正13年5月秀長は紀伊・和泉を与えられ、和歌山城(和歌山市)の築城が行われる。秀長や家臣たちによる紀伊支配は円滑に進まなかった。在地における根強い抵抗があった。その後、秀長が大和国に移ることにより、紀伊は家臣・桑山重晴が和歌山に代官として入ることになる。

第五章では、四国征伐と大和支配に関して述べられている。天正13年に秀吉が関白に任官した後、秀長が豊臣政権下でどのように処遇されたのかを本章で検討している。秀長は従三位・参議兼近衛中将に任じられており、秀吉・信雄に次ぐ官職を得ており、徳川家康よりも高い地位にあった。翌年には、中納言に昇進している。

四国征伐に際しては、秀長が総大将を、甥の秀次が副将を務めた。天正13年7月25日には、長宗我部氏に対して和睦を求めている。秀吉は秀長に交渉を任せつつも細かな指示を与えていた。この四国征伐が終わると秀長は秀吉より大和国を与えられた。郡山城(奈良県大和郡山市)に拠点を置くことになる。

第六章では、九州征伐に至る過程と秀長の死について書かれている。秀長は島津氏との正式な交渉ルートであり、内々なルートとして長岡幽斎や千利休ルートもあったが、これらの交渉は島津氏に服属を要求するものであった。しかし、それは叶うことなく九州征伐に動くことになる。秀長も九州征伐に加わっている。九州征伐後、九州国分は秀長に任された。とくに、崩壊寸前である大友氏による豊後支配の立て直しを進めた。

秀吉のよる小田原征伐が行われたが、この頃から秀長は重病を患っており、天正19年1月22日に亡くなった。享年52であった。

本書は秀長の役割、生涯を一次史料が少ないなかで、二次史料も用い様々な視点から検討された書籍であろうと思う。一方で、話の内容が致し方ないが秀長というよりも秀吉の経歴が多くなってしまっている。

本書の感想

筆者自身そこまで秀長のことを知っているわけではないので、本書自体は読みやすい内容とではあるが、秀長の経歴よりも秀吉の経歴が重視されているように思える。本書の秀長の話より秀吉の話の方が濃く現れている。しかし、秀長の家臣や支配に関しては読みやすく書かれているため、秀長入門編としては非常にふさわしい書籍といえる。

注目すべきポイントとしては、あまり一般には知られていない「羽柴長秀」という名である。本書では詳しくは触れられていないが、秀長の発給した文書にこの名前が見られる。この人物は秀長のことである。そして、「長」の字が先に来ているということが重要な視点であろう。「長」の字は織田信長からの偏諱と考えられ、そのため先に来ていると考えられるが、この説明を本書で詳しく解説していないのが残念な点ではある。

また、本能寺の変の報せがどのように届いたかという藤田氏の指摘に、大門氏は疑問を投げかけ検討しているのも、おもしろい点である。

【参考文献】
柴裕之「羽柴秀吉の領国支配」(戦国史研究会編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年)
藤田達生「織田政権から豊臣政権へ―本能寺の変の歴史的背景」(『年報中世史研究』21号、1996年)