はじめに
戦国大名の外交と聞いてどのようなものが想定されるだろうか。言葉通りに取るならば、戦国大名の国際外交について論じたものと思う人もいるかもしれない。
しかし、戦国大名の支配地域は、朝廷や室町幕府などの他者の支配権が一切及ばない領域として存在していた。つまり、戦国大名は「地域国家」であり、当主はその領域における最高権力者として存在していたのである。そのため、研究上では戦国大名が支配する領域を領国と呼び、戦国大名同士の交渉は国家間の「外交」として理解されている。
本書は、具体的に戦国大名の外交とはどのようなものか初めて明らかにしたものである。なお本書は、2013年に刊行されたメチエ版の丸島和洋『戦国大名の外交』を文庫化したものであり、補論3編が追加されている。本書の章立ては以下の通りである。
序章 戦国大名という「地域国家」
第一章 外交と作法
第二章 外交による国境再編
第三章 外交書状の作られ方
第四章 取次という外交官
第五章 外交の使者
第六章 外交の交渉ルート
第七章 独断で動く取次
第八章 取次に与えられた恩賞
終章 戦国大名外交の行く末
補論一 武田・徳川同盟の成立と決裂
補論ニ 外交から考える本能寺の変
補論三 取次の失態が招いた小田原合戦
コラム 女性と外交
1.本論の概要
戦国大名同士の和睦や同盟交渉では、国分と呼ばれる国境の画定が重要な位置を占めていた。戦国大名の戦争は、境目の地域の帰属をめぐる「国郡境目相論」の性格を有していた。境目の地域には、国衆領が存在することが多かった。境目の国衆は、隣接する複数の大名に同時に従属することもあった。国衆の両属という事態は、両属先の戦国大名が同盟関係にあればとくに問題ないが、敵対関係にあった場合、その動向が戦国大名同士の戦争を招きかねない危険性を孕んでいた。
戦国大名間の外交では、一門・宿老層と当主側近層がペアを組んで取次を務めることが多かった。外交において、大名の内意を知っている存在として関わったのが当主側近である。支城主や城代とは違って、側近は常に大名の側にいることから、詳細な事情を把握していた。
側近だけでも十分外交を行えていたが、一門・宿老層が外交に参加したのは、彼らは側近と比べて、大きな発言力などを有していた存在であったからである。一門・宿老は、大名の発言を家中全体の意思であることを保証する役割を求められたのであり、側近に比べて家格の高い彼らしかできない役割でもあった。
戦国大名にはこのような取次の立場を安堵する必要があった。外交取次に就任することは、取次側にとって大名家の外交政策の場における発言力を確保することを意味した。取次自体が権益化していたからこそ、その変更は軋轢を招きかねないものであった。そのことを大名側も認識していたから、取次の立場を保証したのである。
戦国末期になると、豊臣政権によって天下一統が達成され、各地の大名・国衆は豊臣政権内に位置づけられる。その際、豊臣政権は、大名との意思伝達を行うにあたり、取次を活用した。豊臣政権の取次と戦国大名の取次には本質的な違いはないが、豊臣政権では従属した戦国大名との交渉が行われた。こうした従属した戦国大名と豊臣政権の間では、明確な上下関係が存在しており、対等な大名間外交の延長線上に位置づけることはできない。
かつて、戦国大名は国衆を従属化におき、指南と呼ばれる取次役を媒介としてその統制を行っていた。しかし統一政権が成立して以降、戦国大名自身が政権からの統制を受ける立場になった。つまり、豊臣政権の取次は戦国大名と従属国衆の関係性の延長線上に成立した存在なのである。
2.補論の概要
補論一は、武田氏と徳川氏の同盟成立(永禄11年、1568)から決裂(元亀3年、1572)までを論じたものである。永禄11年12月、武田信玄と徳川家康が今川領へ侵攻した。事前に取り決めを行っていた両者であったが、領土問題が発生した。信玄は早々に駿河を制圧して遠江に侵攻する予定であったため、重臣の秋山虎繁に別動隊を率いさせ、天竜川沿いに南下させていた。しかし、同盟破棄に激怒した北条氏が駿河に侵攻したことで、信玄は遠江侵攻どころではなくなる。
一方、家康は順調に遠江を経略していたが、信玄が遠江に侵攻すると、武田氏へ服属する国衆が続出する可能性があった。そこで家康は、永禄12年正月、遠江に侵攻してきた秋山勢について信玄に抗議したのである。永禄11年12月の段階では、信玄・家康の間で遠江は「切り取り次第」という合意ができていたため、盟約違反をしているのはむしろ家康の方であった。しかし、信玄は北条氏との戦いで手一杯だったため、秋山勢を撤退させざるを得なくなった。
これに対して、信玄は織田信長に抗議をしている。信玄は、信長と家康の関係を従属関係とみていた。だから、主家である信長に抗議をしたのである。この後、信玄はたびたび信長に家康のコントロールを要請するが、信長にとって家康は同盟相手であるため、信玄が望む結果にはならなかった。さらに、家康が上杉謙信と結んで信玄との同盟を破棄したことにより、家康への怒りが信長への不満につながっていく。元亀2年末に北条氏政との同盟を復活させた信玄は、元亀3年10月に徳川領へ侵攻する。
補論二は、本能寺の変について近年注目されている四国説を、外交という視点から検討したものである。一般的には、事前に惟任(明智)光秀が本能寺の変を計画していたという説が存在する。しかし、本能寺の変は織田信長・信忠父子が少数で京に滞在していたところ、畿内周辺で大規模な軍勢を動かすことのできた光秀が起こしたものである。変後の9日に長岡藤孝に送った書状では「思いがけないこと」と述べており、朝廷や足利義昭などの黒幕の存在をうかがうことはできない。
補論三では、取次の失態が小田原合戦につながったとする見方を示している。北条氏と羽柴秀吉の間では氏政の上洛時期をめぐって、認識の齟齬が生じていた。北条氏は天正17年(1589)の年内に上洛するとの認識であったが、秀吉は名胡桃(なぐるみ)城事件以前から、11月中の氏政上洛がなければ、小田原攻めを行うと述べている。豊臣政権側の取次である富田一白(かずあき)と津田盛月は、北条氏と秀吉の認識の齟齬を知っていたはずである。しかし、彼らが正確な情報を伝えなかったことにより、北条氏は上洛への不安から上洛を実現できず、小田原合戦へと発展する。
3.コラムの内容
従来は戦国大名の正妻以外の妻妾については「側室」とされてきた。しかし、近年の女性史研究の進展により、「側室」という概念が確立するのは江戸時代からということが分かってきた。つまり、戦国時代では妻や妾が複数いる「一夫多妻多妾制」を基本としたのである。
中世はまだ女性の政治的影響力が強かった時代であり、北条政子や日野富子らが家督としての権限を行使することもあった。戦国期では、今川氏親夫人の寿桂尼や、羽柴(豊臣)秀吉の妻禰々(北政所)と茶々(淀殿)、伊達政宗の生母・義姫(保春院殿)などがあげられる。なかでも、義姫は嫁ぎ先である伊達氏と、実家である最上氏の間で戦争が行われた際、和睦を仲介している。ほかにも女性が外交面で重要な働きをしている事例があり、戦国大名の外交と女性の問題については、さらなる検討が必要である。
1つ気になったのは、丸島氏は正式な妻と認めるかは当主の家妻の権限であり、妻と認められなければ妾となるとしているが、これは誤りである。妻は当主とともに家を形成する主君の立場であり、妾は妻に仕える女房衆の立場であった(福田2022など)。結婚は実家と婚家の結び付きを示すものであったから、家妻の一存で決められるはずがない。
また、当主は妻・妾以外の女房衆とも性的な関係を有する場合もあった。しかし、当主と女房衆の間で子が誕生しても妻が認めていない女房衆の子は、当主の子として認知されなかった(黒田2022)。つまり、家妻が認めなければただの女房衆にすぎないのであり、家妻に認められると妾になるのである。なお、以上の点については河内守義親氏よりご教示いただいた。
おわりに
本書は、戦国大名の外交を理解するうえでもっとも良質な著書であると同時に、戦国大名を研究するうえでも重要な著書でもある。メチエ版では個々の事例の検討は多くなかったが、文庫化に際して補論が追加されたことで、読者が戦国大名の外交の実態をより把握しやすくなったと思われる。
戦国大名に関心のある方はもちろん、戦国時代に興味のある方にもぜひ手に取ってもらいたい書籍である。さらに、戦国大名の外交についてより詳しく知りたい方は、本書の元となった丸島氏の博士論文である『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、2011年)にも目を通していただきたい。
【参考文献】
黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社、2022年)
福田千鶴『大奥を創った女たち』(吉川弘文館、2022年)




