南禅寺金地院の住持であった以心崇伝は、慶長12年(1607)に西笑承兌の後任となり寛永10年(1633)に没するまで、草創期徳川政権の寺社行政・外交事務を担った。そんな崇伝の残した古記録はいくつか存在するが、中でも著名なものが「本光国師日記」である。
これは寺社行政を中心に書状のやり取りを記録したものであり、崇伝が仕事を始めてしばらく経った慶長15年(1610)の春から、その没する寛永10年1月20日までを全47巻に収める。
ここでは、「本光国師日記」の内容をもとに、崇伝の視点からみた草創期徳川政権について考察していきたい。なお、先行研究リストや問題点の整理などは別に示す予定である。本稿は、近世初期のものを中心に史料読解の愉しみを共有したいというだけのちょっとしたコラムである。
さて、ここに示したものは「本光国師日記」の巻一、その最初に示された案文である。慶長15年(1610)3月7日に崇伝から本多正純にあてて認められたものである。
一 圓光寺同道仕候て昨夕罷下候。頓而學校同心申。
以参上可得尊意候。 御前御礼之事。可然様に御
指南奉頼存候。萬々以面上可申上候。恐惶謹言。
三月七日 ―――――
本多上野様人々御中
尚々頓而以参上可得尊意候。先一書申上候。
以上。
右立文修禪寺に書之
圓光寺とは当時駿府にいた閑室元佶のことである。元佶は足利学校の9世庠主(校長)を務めた人物であり、家康のもとで伏見、次いで相国寺内に円光寺を開きその住持を務めていた。
元佶は足利学校の元庠主として家康の文化政策に関与したほか、西笑承兌の僧録としての職務を輔弼した。承兌が慶長12年に没すると崇伝がこれに代わった。元佶は引き続きこれを輔弼したようで、この書状案でも崇伝と同行しているようだ。
問題は、「やがて学校同心申し」という文言である。「学校」というのは人物を指すが、はたして誰を指すのだろうか。
この時期、書状や記録類で「学校」というと普通足利学校の庠主を指す。というのは、先ほど「圓光寺」とあるのがその住持閑室元佶を示すとしたように、住持を務める僧侶はその寺院の名前で呼ばれることが普通であったからだ。足利学校は寺院の一種として認識されており、その住持といえるのは庠主である。実際にほかの史料で「学校」が足利学校庠主を示す例をみてみよう。
永禄年間の島津貴久書状に「学校侍衣禅師」へ宛てられたものがある。これはその内容から元佶の師、足利学校7世庠主の玉崗瑞璵を指す。元佶についても、言経卿記で文禄2年(1593)2月7日・慶長2年10月24日の二か所で「学校」として登場している。順当に考えるなら、「学校」は足利学校の当時の庠主を指すと考えることができる。
この時期に足利学校庠主を務めていた竜派禅珠は九華の門下生で、兄弟弟子の元佶から慶長7年にその職を譲られている。幸い竜派禅珠は「寒松稿」という古記録を残しているから、関連する記事がないかこれを確認してみよう。
「寒松稿」より「草稿四」を見ると慶長15年4月27日に足利学校を発し、駿府へ赴いているのが確認できる。5月8日に「謁見右府公」があって、家康に御目見したことが確認できる。11日に駿府を発ち、6月3日には足利学校へ帰り着いた。
直後にみえる「御前御礼事」を禅珠の登城のことと捉えるなら、「学校」を当時の足利学校庠主竜派禅珠と捉えて問題ないだろう。
すると、この書状の目的もおのずと明らかになってくる。この書状において、崇伝は禅珠の登城について「しかるべきように御指南頼み奉り存じ候」として、正純に指示を頼んでいる。そして正純と面会し、相談をするために書状をしたためているのだろう。この後の記事も確認しつつ確かめてみよう。
一 今朝是迄被成御来駕之由忝存候。山名禪高へ朝
食に圓光寺同道仕参候故。不能面上迷惑仕候。御
用繁内。被為寄思召御尋之段。外聞忝次第候。昨夕
者参上候處に。御懇志共過分至極存候。諸式可然
様に御指南共。萬々奉頼存候。恐惶謹言。
三月八日 ――――
本多上野様人々御中
今朝御尋萬々忝存候。為御禮以書状申上候。
以上。
翌8日の記事である。先ほどと同じく崇伝から本多正純に宛ててしたためられた案文だ。朝に崇伝のもとを正純が訪れたらしい。崇伝は元佶と山名禪高のもとへ朝食を食べに行っていたので会うことができず困惑している。
山名禪高とは山名豊国のことである。但馬山名氏の一族で因幡鳥取城にあって因幡の国衆をまとめたが、織田・毛利の狭間で国衆の離反を招き天正9年(1581)に鳥取城を退去した。家康のもとでは但馬七美郡6700石を知行された。この頃は駿府で御咄衆を務めていたとされる。
「昨夕者参上候處」とあるので、7日には書状をしたためた後で実際に正純のもとへ相談に行ったのだろう。そして8日朝に正純も崇伝のもとへ相談に向かった。ここでも「諸式可然様に御指南共」頼んでいることから、二人の間で話題となっているのは禅珠が家康の下へ登城する件についてであったのだろう。
さらに正純宛の書状が続く。
一 一書申上候。來十六日朝。御茶可被下旨忝存候。圓
光寺致同道必々可致参上候。為御禮先以書状申
上候。萬々期面上存候。恐惶謹言。
三月九日 ――――
本多上野介様人々御中
今度は16日の朝、正純が茶会を開き、元佶と崇伝を呼んだらしい。崇伝はまず書状にて、次いで実際にあって礼を述べようとしている。ここまでの流れから考えると、禅珠の来府について相談をしつつ茶事を開くものだったのだろう。
さて、ここでいったん正純宛の書状はしばらくみえなくなり、禅珠の来府にまつわる史料はみられなくなる。実際に正純の茶事は開かれたのかはわからないが、「寒松稿」を見る限り禅珠の来府は成功裡に済んだようである。三人の相談はきちんと実を結んだのだろう。
参考文献
以心崇伝「本光国師日記」『大日本仏教全書 第138巻』(仏書刊行会)1915
和島芳男「足利学校新論(下)」『論集』第8巻第2号(神戸女学院大学)1961
竜派禅珠「寒松稿」『川口市史 近世資料編3』(川口市)1983
島津家文書1413 島津貴久書状(永禄三年ヵ六月朔日)https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/850/8500/05/1603/0226.tif




