このコラムでは、「本光国師日記」の内容をもとに、崇伝の視点からみた草創期徳川政権について考察している。前回、巻一のはじめにある三つの書状を題材にした。今回は4つ目の書状から話を始めてみよう。3月10日、後藤庄三郎にしたためられた書状案である。
一 昨日円光寺同道申参上候へ共。早御登城に御座
候間。書状認申置候。相届申候哉。何様に御内に御
座候時。参上を以得御意度候。仍。昨日書中にも如
申入候。此書状寺志州ゟ言伝り申候。口上も御座
候条。面上之時進度候へ共。餘相延申候間。先持せ
進入申候。則御報可被下候。飛脚被差越候条遣度
候。為其一書如此候。恐惶謹言。
三月十日 ――――
後庄左様人々御中
後藤庄三郎は彫金師後藤徳乗の弟子である。徳乗は豊臣政権下で大判座(京都府京都市)を支配し貨幣発行を担っており、関東に下向した徳川家のもとに技術者として派遣されたのが庄三郎であった。以降は家康の出頭人として、徳川政権の財政・貿易に関与したとされる。この後、元和2年(1616)頃に失脚したという(曽根1976)。
文意をみると、3月9日に崇伝は閑室元佶(円光寺)と同行して庄三郎の下を訪ねたらしい。庄三郎は早くも登城していたので面会は叶わなかったようで、崇伝と元佶は書置きを残して帰ったという。
さて、二人は何の話をしようとしていたのだろう。次に続く言葉がヒントを与えてくれる。「此書状寺志州ゟ言伝り申候」と言っている。寺志州より言伝を得た話とはどのような話だろう。
寺志州とは寺沢志摩守広高のことである。寺沢広高は羽柴秀吉に仕えて唐津城(佐賀県唐津市)主となったが、関ヶ原の戦いの際には家康について天草4万石を加増され九州に12万石を領有した。
さらに、広高は文禄元年から慶長7年まで長崎を管轄しており、唐津・島原・長崎で貿易に関与していた。また、五山派の僧侶が外交文書を起草するのが通例となっていたため、崇伝・元佶もまた外交文書の起草に関与していた。つまり、崇伝・元佶・後藤庄三郎・寺沢広高の四人が関与する話題として第一に想定されるのは外交関連である。
この時期の外交文書は『異国日記』『異国御朱印帳』にまとめられている。前者は崇伝の起草したものを中心に金地院でまとめられたものであり、後者は承兌・元佶の起草したものを元佶がまとめたものである(木崎2001・異国日記刊行会1989など)。
まず、『異国日記』には慶長15年春の記事は見当たらない。慶長14年秋の呂宋(フィリピン ルソン島)船の記事と、慶長15年秋の安南(ベトナム北部)国書の記事とがみえる。共に寺沢広高に関連するものとは想定できない。
『異国御朱印帳』には、慶長15年1月11日付けの安南宛・呂宋宛・暹邏(タイ)宛・東埔寨(カンボジア)宛・交趾(ベトナム中部)宛朱印状、同25日付けの東埔寨(カンボジア)宛朱印状などが収録されている。これらのうち、いくつかは後藤庄三郎の関与したものであるが、寺沢広高に関与するかは不明である。
他に何か候補となる事象がないか、後藤庄三郎の方の書状をあたってみると、ちょうど閏2月17日に遍照光院頼慶(真言宗の僧侶)と醍醐寺(京都府京都市)の間で相論があったようで、庄三郎は醍醐寺へ書状を発給している(醍醐寺文書2363号)。内容をみると、亀屋栄任(京都の呉服商)と共にこれを家康に取り次ぐと伝えている。寺社の相論については、崇伝・元佶の関与するところであったし、栄任は崇伝の下について働くことが多かった。しかし、寺沢広高が関与するとは考えにくい。
一方、寺沢広高の書状を探してみると、慶長15年夏に島津義弘(薩摩の戦国大名)に宛てられた書状がいくつか見出せる。琉球出兵の後、島津家久(薩摩藩主。義弘の子)が尚寧を伴い駿府・江戸を訪れていたようで、寺沢広高は家久の現況を義弘に伝えている(島津家文書1585号・1586号・2192号)。
日付としてもっとも近いのは遍照光院と醍醐寺の相論であるが、寺沢広高の研究は少なく、現状では広高と遍照光院・醍醐寺との関連を見出すことはできていない。
尚寧と家久の参府は彼らが関与しうるものといえるが、島津家久と徳川政権で島津氏との取次役であった山口直友の間に交わされた二月の書状では島津久敏(義弘の弟の孫)の帰国が主題であり(島津家文書2183号・2184号)、これらの書状で尚寧を伴っての参府が取り沙汰されていないことが気になる。
寺沢の領地から貿易を企図して朱印状発給のための取次を崇伝と元佶に依頼したとするなら、この四者の名があげられることは腑に落ちるが、そのような朱印状は見当たらず裏付けられない。
このあと後藤庄三郎宛の書状は10月までみられない。こちらでは広高の名はみえず、関連するとは思われない。この点は今後検討する必要がある。
【参考文献】
曽根総雄「後藤庄三郎考」『東海史学』(10)(東海大学史学会)1976
木崎弘美『近世日本外交史の総合的研究』2001
異国日記刊行会『影印本 異国日記――金地院崇伝外交文書集成』(東京美術)1989



