秀吉が強調したかったこと

さらに、筆者が指摘していない決定的な違いが、この2つの案文には存在する。

まず、第1案において前線で切りかかったのは「高山・中川」の二者だが、第2案では「高山・中川・堀秀政」の三者へと変更されている(なお、堀秀政はまさにこの月、他家では最初に羽柴姓を名乗った事が確認できる人物である)。より重要なのは、第2案に前線以外の記述が追加され、そこには加藤光泰や中村一氏、小一郎(羽柴長秀)、黒田官兵衛らが山崎表に布陣している様子が明記されている点だ。

つまり、両案文における推敲の目的は「遅参の隠蔽」ではなく、「合戦に秀吉方の軍勢がどれだけ関与していたか」を強調することにあったと考えられる。その場に実際、秀吉方の軍勢がいたのか、あるいは秀吉と近い堀秀政がいたのかは、この案文のみから確定させることはできない。 ただし『兼見卿記』6月13日条は、勝龍寺を取り巻いた「南方之諸勢」として織田信孝・羽柴筑前守・池田紀伊守・丹羽長秀らと並べて「堀久太郎」の名を挙げており、案文から独立した同時代史料が堀勢の関与を裏づけている。

12日に、先に山崎に行き高山中川の先陣争いを制した後、山崎~天神の馬場まで陣取りをし、再び富田に戻ったというこの案文の秀吉の主張は、12日の朝に尼崎を出たと考えるとかなりの強行軍になると思われるので誇張である可能性は残る。しかし、秀吉はそこに至るまでに中川・高山と書状を交わしている様子は「秀吉文書420号」などからもうかがえる。また高山の活躍を描くフロイス書簡にも、高山が秀吉に連絡しようとしたとの描写はある。

つまり、本人が本当に行ったのかはともかく、中川・高山に関わり、秀吉方の勢力が山﨑~天神の馬場まで陣取りをしているという記述の根拠となるような行動はあるのではないだろうか。なお、摂津衆(池田・中川・高山)らと秀吉は前日(12日)までに軍議を持っていたとみられている。

さて、秀吉自身は13日昼の段階で、信孝を迎える場所にいた。そして、前日に宿泊しているのは天神の馬場から約4キロ離れた富田である。この案文自体からは、天神の馬場と富田のどちらで信孝と会ったのかは判然としない。ただ、富田で宿泊したのはギリギリ富田に着いたからではなく、信長が陣を置き、信孝が本陣を構えるのにふさわしい場所である天神の馬場から4キロの地点であり、兵が宿泊することのできる寺内町であるのでそこに宿泊したと考える方が自然なのではないだろうか。

しかも、秀吉は第2案で羽柴長秀が山(天王山・大山崎町)に布陣していたと書いている。近年の羽柴秀長(当時は長秀)研究の進展に伴い、羽柴長秀が秀吉の一門として分身のように働いている姿が明らかになっている。

繰り返しになるが、この手紙は当時秀吉と行動を共にしていたとされる信孝宛てである。もし羽柴長秀が秀吉と共に留まっていたならば、誤魔化したとしてもすぐに露見してしまう。少なくとも羽柴長秀や黒田官兵衛らは、天神の馬場にはいなかったと考えるのが自然である。

山崎の戦い関係地図(地理院地図をもとに作成)
山崎の戦い関係地図(地理院地図をもとに作成)

あらゆる場面で遅参した事実を隠蔽しようとしていた?

さて、筆者は「山崎の戦いに遅参した羽柴秀吉」の論文と対になる紀要論文において、この論考を元に「山崎の戦いが終わった後、秀吉やその周辺の者たちは、あらゆる場面で遅参した事実を隠蔽しようとしていた」と結論づけている。しかし先に検証したとおり、少なくとも天正10年(1582)10月に作成された信孝家臣宛ての書状案文において、秀吉は「昼に信孝を迎えた」と明記しており、これは当時のほかの動静とも一致している。

たしかに、滝川一益宛ての秀吉文書(444号)などでは、さも自分が戦ったかのように誇張して書かれている面はある。しかし、本論考のメインである503号・512号の案文に関して言えば、「遅参をごまかそうとしている」とは言えない。むしろ、13日昼に別の場所にいると認めている。秀吉本隊が戦った描写もない。また、秀吉本人の顕彰目的であると考えられる天正記(惟任退治記)でさえ、秀吉は開戦当時は後方(富田)にいる。秀吉に自分が開戦時にその場にいることへのこだわりは見受けられない。

結局のところ、503号・512号の案文は、単にミスの多かった初稿を推敲したにすぎず、そこに意図があるとすれば自分の軍勢や、自身に近い将である堀秀政が山崎で機能していたこと、自分の意図で高山の先陣の功があったとしたい点などであろう。

つまり、秀吉は遅参を隠蔽などしていない。したがって「秀吉が必死に遅参をごまかしている」という論の前提自体が成り立っていないように思われる。

驚かされるのは、根拠となる論理が成立していないにもかかわらず、続く紀要論文において「あらゆる場面で遅参を隠そうとしていた」「よって、秀吉にとって遅参は大きな失敗と認識されていた可能性が高い」「それが事実であれば、弔い合戦に成功した別の功労者がいたはずである」と、憶測のうえに憶測を重ねて論を展開していく点である。

さらに、その論文では「真の功労者」の認定プロセスにも無理がある。天正9年の動員体制を根拠に「池田恒興は軍勢の規模が大きいから軍功も相応にあったはず」とし、天正9年時点で中川・高山・池田の三者の中で恒興が大将格とされていたことをもって、翌天正10年の山崎の戦いにおける最大の功労者も池田恒興であったに違いない、と結論づけているのだ。

しかし、秀吉の案文503号では「中川・高山(先陣は高山)」、修正版の512号では「中川・高山・堀(先陣は高山)」、そしてフロイスの書簡でも「中川・高山・池田であり、特に高山が目覚ましい活躍をした」とある。フロイスの記述にキリシタンである高山右近を誇張する意図が含まれていた可能性を考慮しても、秀吉側に高山を持ち上げるメリットはない。これら複数の史料に共通しているのは、「高山・中川がなんらかの不仲であったが和睦したこと」、そして「高山が先陣として武功をあげたこと」である。

実際に、先陣争いを秀吉が裁定したか否かは確定できないまでも、秀吉としては両者にあったわだかまりを解消させ、高山を先陣として活躍させたプロセスに秀吉が関与したのだと主張したかったのだろう。これらの史料状況から、これだけで池田恒興を「最大の功労者」と位置づけるのは困難といわざるをえない。

もちろん、それまで織田政権の宿老格とはみなされていなかった池田恒興が、清洲会議を経て宿老の連署に加わっている事実は動かない。その躍進の背景に山崎の戦いでの軍功が関係していることは想像に難くないが、だからといって無理に「彼こそが山崎の戦いの最大の功労者だったからだ」と図式化してしまうと、かえって歴史の実像を曇らせてしまうのではないかと危惧する。

続く論文で筆者は、「秀吉が宝積寺に本陣を置いていた」とする言説の系譜を追ったうえで、これを否定している。だからこそ、遅参論考の方でも「山崎にいなかった秀吉」という話になるのだろう。

秀吉本陣の伝承

たしかに、宝積寺を秀吉の本陣とする説明は現在のネットや一般書にも見られ、当の宝積寺自身も公式には「秀吉が本陣を置いた寺」と紹介している。ただし紀要論文の表2が整理するとおり、一般の図書で「本陣」「本営」と明記されるようになるのは明治後期に入ってからのことである。いっぽうで前述の通り、高槻側には秀吉の本陣を「天神の馬場」とする伝承と説明板が現存する。

実際、私自身が昨年(2025年)10月に山崎の戦いの史跡巡りを行った際、天神の馬場(高槻駅付近)には「秀吉本陣跡」としての歴史解説プレートが設置されていたが、宝積寺の現地解説にはその本陣に関する記載は見当たらなかった。

もっともこれは現地の掲示についての個人的な体験談であって、宝積寺説が流布していないという意味ではない。ただ、当の現地では意外なほど控えめな扱いなのである。

そのため当初は宝積寺に立ち寄る予定はなかったのだが、たまたま山崎の戦いの展望台に行く途中に道に迷って境内に足を踏み入れ、ここがいわゆる山側の陣だろうかと思ってその場でネット検索をして初めて、宝積寺に秀吉本陣の伝承があることを知った。現地に設置された歴史解説看板にすら、迷い込んだ旅行客の見える範囲には「秀吉本陣伝承の地」とは書かれていなかったのである。

ただ、寺の解説看板であるにもかかわらず、なぜか宝積寺自体は登場しない山崎の戦いの詳細な経過解説だけが詳しく掲載されており、これはおそらくここが本陣だと思ってやってくる観光客へのサービス的な掲示なのだろうと今ならば思う。

ここで重要なのは、宝積寺本陣説を否定したとしても、「秀吉は山崎にいなかった」ことにはならない、という点である。天神の馬場の伝承が示すとおり、秀吉本隊が合戦の初期に後方にいたという理解は、もともと広く共有されてきた。本論考の実証が果たしたのは、その「後方」の位置と様子を当日発給の文書で確定させたことであって、従来理解の大枠はむしろ補強されている。これはあくまで史実と異なる伝承の否定作業であり、それ自体は正当である。ただ、宝積寺説を倒すことと「秀吉が山崎にいなかった」こととは、本来別の命題である。前者の否定が、そのまま後者の印象を支えるかのように機能してしまっている構成には、少々注意が必要だろう。

ちなみに私はXで実況しながら山崎の戦い関連史跡を巡っており、12日に秀吉が滞在した富田、13日の本陣である天神の馬場、天王山についてはポストしているが、宝積寺については現地に行ったにもかかわらず秀吉本陣とのネット記述しかなかったのでポストしていない。

 些末な反論を重ねてしまったが、筆者の所属団体が6月13日当日の新たな秀吉文書を入手し、新出文書の紹介という大きな成果を、より鮮烈な形で世に問いたいという事情は理解できる。しかし、その鮮烈さのために史料の解釈が引きずられてよいわけではない。私は筆者の他の優れた論考を読み、ブログ等からも多くを学ばせていただいているファンの一人であるからこそ、歴史に対してはぜひ客観的かつ抑制的な態度を保っていただきたいと切に願うものである。 

【付記】なお、本稿に関わる内容として柴裕之「山崎合戦を再び考える」(戎光祥ヒストリカルセミナーvol.54レジュメ、2026年6月27日)が発表されている。本稿脱稿後であったためその内容を本稿に組み込めていないことをお断りしておきたい。