山陰戦国史の概要

2024年10月11日から12月8日にかけて、島根県立古代出雲歴史博物館では企画展「山陰の戦乱-月山富田城の時代-」が開催されている。本展は、島根県古代文化センターで2021年〜2023年に行われたテーマ研究「中世山陰の戦争と地域社会」の成果をもとにした展示である。

まずは、前提となる山陰戦国史の概要を確認してみたい。応仁・文明の乱以降の混乱に乗じて、尼子経久(出雲守護代)は寺社領の押領や段銭の徴収拒否などを続けていた。そのため、文明16年(1484)に京極政経(出雲守護)によって守護代職を更迭されてしまう。しかし、経久はその後も出雲国衆を従属させるなど勢力を拡大し、自身の力量によって出雲を支配する戦国大名となった。

その後、明応9年(1500)に政経と和睦して守護代に復帰し、さらに永正11年(1514)に京極氏が断絶してしまったため、経久は名実ともに出雲国主となった。この頃、周防の戦国大名・大内義興は在京しており、経久はその隙を突いて石見・伯耆などに侵攻し、大永3年(1523)頃には勢力を一気に拡大させている。しかし、義興の帰国によって石見国衆などは再び大内氏に従属し、享禄3年(1530)に塩谷氏反乱が発生したことで、尼子氏は窮地に追い込まれた。経久は大内義隆(義興の子で当主となっていた)と和睦して反乱の鎮圧に成功した。

天文9年(1540)、経久は再び義隆と対立し、大内方の毛利元就の居城・郡山城(広島県安芸高田市)を攻めるために、晴久(経久の孫。当時は詮久と名乗っているが、本稿では晴久に統一)を出陣させる。この郡山合戦は尼子氏の敗戦に終わり、さらに経久が死去してしまう。これを好機とみた義隆は、天文11年に月山富田城(島根県安来市)を包囲するが、今度は逆に大内方が惨敗した。

天文20年、大寧寺の変が発生して大内義長が新たに大内氏の当主となると、翌年、晴久は出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の守護、および相伴衆に任じられた。さらに、石見に侵攻し大森銀山を勢力下に置くなどしている。しかし、永禄3年(1560)に晴久が急死してしまい、子の義久が後を継いだ。

一方、弘治3年(1557)に大内氏を滅ぼしていた毛利元就は、永禄5年以降、尼子氏を攻める。そして、永禄9年に義久は元就に降伏し、尼子氏は領国を喪失した。しかし、尼子氏旧臣の山中幸盛らは再興を諦めておらず、永禄12年に尼子勝久を擁して挙兵する。勝久らは新山城(島根県松江市)を拠点にして月山富田城の奪回をめざしたが、元亀2年(1571)に落城する。天正元年(1573)、勝久らは桐山城(鳥取県岩美町)に入って再び挙兵した。翌年、若桜鬼城(鳥取県若桜町)を奪取した勝久はここを拠点としたが、天正4年に毛利軍の猛攻に耐えられず撤退した。

同年、織田政権と毛利家が手切れとなる。これにより天正5年、信長は羽柴秀吉を毛利攻めの総大将として播磨に出陣させた。このとき、勝久は秀吉に従軍しており、秀吉軍が落とした上月城(兵庫県佐用町)を預かることになった。しかし、翌年に別所長治が毛利方に寝返ったことで、播磨の織田方は窮地に立たされることになる。攻勢を強めた毛利軍は上月城を包囲し、勝久は自刃と引き換えに城兵の助命を保障することを条件に開城し、尼子氏は滅亡したのである。

しかし、天正7年になると再び織田政権が優勢となり、翌年には秀吉が播磨を平定し、羽柴秀長は但馬を平定する。さらに、天正9年には吉川経家の籠もる鳥取城(鳥取県鳥取市)を落として因幡を平定する。その後、天正10年の本能寺の変を契機に織田政権と毛利家が和睦し、山陰地方の戦国時代は終焉を迎えた。

勝日高守神社(島根県安来市) 月山富田城本丸にある神社
勝日高守神社(島根県安来市) 月山富田城本丸にある神社

展示の内容と特徴

次に、展示の内容を見ていきたい。構成は以下のとおりである。

プロローグ 戦乱の記憶―月山富田城をめぐって―
第1章 戦乱の装い―武具と武器―
第2章 戦乱の群像―武将たちの攻防戦―
トピック しまねの武将たち
第3章 戦乱の諸相―人びとと地域―
第4章 戦乱と城―戦う城、変貌する城―
第5章 戦乱と城下町―富田川河床遺跡の世界―
エピローグ 戦乱の終焉―富田から松江へ―

第1章では、甲冑や刀剣、鉄砲などが展示されていた。近年、武器をモチーフにしたゲームの影響で、歴史好きではない人々の間でも武器に対する興味が広まっているようである。展示の全体構成を考えた際に、このように、最初に興味を持ってもらいやすい資料を展示するというのはとても重要なことであろう。また通常、武具・武器は完成形で展示されていることが多い。しかし、本展では、バラバラに展示されているものもあり、それぞれの部品の名前と、配置の解説があった。おそらく、発掘の際にバラバラになっていたものをそのまま展示しているのだろうが、博物館の教育機関の側面を考えたときに、単に完成形をみせるだけではなく、部品の説明をすることで武具・武器についてより詳細に理解できる展示手法といえる。

第2章・第3章では、おもに古文書が展示されていた。普段、政治史を研究していて古文書を見ている身としては、ここの展示に興味が沸いた。第2章で展示されていたものとしては、(永禄13年)2月17日付けの毛利元就書状に「銀山衆之事も無残可罷出候」とあり、当時の毛利家が石見大森銀山を支配しており、銀山支配を実際に担当していた人々も軍役を負担していたことがうかがわれた点はとても興味深かった。

また、第3章では「(2)水運と軍需物資」の項目が注目された。やはり、戦国時代の戦争といえば陸上で行われる戦争をイメージするのが一般的であろう。もちろん、水軍の存在も知られているが、西国では瀬戸内海の村上水軍の知名度が高く、山陰地方の水軍はあまり有名ではないかもしれない。

しかし、出雲は古代から朝鮮半島や北陸地方との交易が行われていた水運の拠点である。平時において交易の拠点であったということは、戦時においては軍需物資の輸送に使われるわけで、水軍が発展するのも当然であろう。

【史料1】小早川隆景書状(野村家文書)
今度賊船盪下、新山衆成相森山取詰之処、馬潟表早々被懸付、以短息羽倉其外近辺堅固被抱之条肝要候、何茂従御本陣可被成御褒美候、次賊船今朝外浦盪上候と相見之由申候、定而美保関ニ可相懸之間、諸浦用心等専一候、弥可被付心候、猶重畳可申候、恐々謹言、
(元亀元年) 左衛門佐
 五月廿九日    隆景(印判)
  野村信濃入道殿 進之候

【史料2】粟屋元真ら連署状(野村家文書)
天神山之儀、於于今者肝要之儀候条、普請被仰付候、帆筵之儀、俄其調難成候条、当城ニ被置候帆筵之事、先以天神山ヘ可被差遣候、追々相調当城へ者可被差籠候、恐々謹言、
(天正元年ヵ)粟掃
 九月廿四日  元真(花押)
       同弥二
        元勝(花押)
       同宗兵
        就秀(花押)
 野村信濃入道殿

展示されていたなかで山陰における水軍の活動を示す史料としては、【史料1】【史料2】が注目される。【史料1】は本展では年未詳とされているが、『大日本史料』などで元亀元年に比定されており、本稿でもそれを採用する。ここでは、尼子勝久方の水軍が襲来して美保関(島根県松江市)周辺が緊張状態になっていること、これに対して毛利家は森山・馬潟に軍勢を集めていることなどが記されている。

【史料2】は、管見の限りでは年次比定がなされていない。ただし、『大日本史料』天正元年8月23日条によると、毛利輝元が野村士悦(信濃入道)に鹿野城(鳥取県鳥取市)の在番を命じており、士悦は天正4年に死去するので、その間のものと考えられる。この期間に実際に周辺で戦争が行われているのは天正元年であるので、本稿ではとりあえず天正元年に比定しておきたい。この史料は、天神山城(同上)の普請が重視されているものの、帆筵の調達が難航したため、鹿野城の士悦に帆筵の送付を依頼したものである。帆筵は、おそらく軍船の帆に利用するためのものであろうから、このときにも水軍が活躍したことが推測される。

第4章では、武具・武器以外の城郭から発掘されたものや、絵図などを通じて合戦の様態に迫っていた。出土品には、釜や鍋など日常生活で使用されるものも多く、戦時とはいっても一人一人の人間がそこで生活していたことをものがたっている。また、絵図の多くは城郭の図であったが、『毛利元就郡山籠城日記』のなかには郡山城の攻め手の布陣図が入っており、とても臨場感がわいた。

第5章は、富田川河床遺跡の出土品が並んでいる。2024年3月に、島根県古代文化センターは前述したテーマ研究の成果として『富田川河床遺跡の研究』という報告書を刊行している。したがって、本展の中心は第5章にあるといえるだろう。ただし、報告書を読んでない状態で展示を鑑賞した限りでは、本展のタイトルにもなっている「戦乱」とのつながりがわかりにくかった。

全体的に、戦国時代に山陰地方で発生した戦争の具体的な状況を示す文献史料と、実際に戦争で用いられた遺物を中心として展示されていた。もとになった研究テーマをみてもわかるように、政治史というよりは個々の戦争に焦点が合っている。私は普段、東国戦国史を中心に勉強しているので、西国については基礎的な事実を含めて不勉強な点が多い。しかし、全体的にみれば、そのような前提知識がなくても楽しめる展示であった。

【参考文献】
池亨『毛利領国の拡大と尼子・大友氏〈列島の戦国史6〉』(吉川弘文館、2020年)
菊池浩幸「西国の戦国争乱――十六世紀前半の中国地域を中心に」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』筑摩書房、2020年)
長谷川博史『大内氏の興亡と西日本社会〈列島の戦国史3〉』(吉川弘文館、2020年)