はじめに
「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」
皆さん、この言葉を知っているだろうか。これは豊田悠による漫画作品を元ネタとして生まれた言葉である。近年は、YouTube上で、お笑いコンビ「春とヒコーキ」の一人であり、「バキバキ童貞」で知られる「ぐんぴぃ」を中心に運営される「バキ童チャンネル」がチャンネル登録者197万人(2025年11月5日現在)を達成するなど、童貞が破竹の勢いを見せている。これを受けて一部では「バキ童が天下を取る」とささやかれる程である(岡田2024)。
童貞が勢いを見せる今、過去に日本に存在した童貞に注目する必要があるかもしれない。歴史を振り返ると、室町時代後期、生涯童貞を貫いて魔法使いとなり、「半将軍」と呼ばれた男がいた。それが本書の主人公“細川政元”である。
細川政元は明応の政変を引き起こした人物として知られているが、今まで評伝として取り上げられることはなかった。『中世後期細川氏の権力構造』など細川氏の研究をしている古野貢氏が執筆した、初めての政元に関する評伝となる。目次は以下の通りである。
はじめに
第1章 「ポスト応仁の乱の覇者」はいかに時代を変えたのか
第2章 オカルトへの傾倒
第3章 「ポスト応仁の乱」の時代―若かりしエリートの挫折―
第4章 戦国の引き金を引いた「明応の政変」
第5章 覇権と暗殺、そして戦国へ
終章 政元の多面的な実像―再評価すべき理由
おわりに
本書の内容と意義
本書では、一般的には知られていない細川政元という人物について書かれている。ここで一度、細川政元という人物について軽く説明しておこう。
細川政元は細川勝元と山名宗全の養女との間に生まれ、まさに「ポスト応仁の乱」を象徴する人物であった。明応の政変では足利義澄を擁立して足利義稙と敵対し、「二人の将軍」が存在する時代をつくった人物として知られる。また細川政元といえば一部の間では“魔法使い”として名が知られている。
『足利季世記』第二 巻首政元生害事の冒頭
京管領細川右京大夫政元ハ、四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法飯綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ、或時ハ経ヲヨミ多陀羅ヲヘンシケレハ、見ル人身ノ毛モヨタチケル、
『細川両家記』群書類従巻第三八〇
四十のゐん(員)におよぶ迄夫婦のかたらひなき間、御子ひとりもましまさず、常はまほうをおこなひて近国他国をうごかし、又或時は津々浦々の御船遊びばかり也
細川政元は修験道に没頭し、生涯童貞であり、ついには魔法使いになった。このようなオカルト武将としての細川政元像が世間でははびこり、おもしろがられている。
しかし、政元はただのオカルト武将であったのだろうか。もう少し室町時代を生きた“政治家としての政元”にもっと注目するべきではないだろうか。この本ではオカルト武将としての細川政元だけでなく“政治家としての政元”が描かれている。
また、著者の古野貢氏は細川政元を取り上げた理由としておおむね以下のようなものであったと述べている(ミスター武士道2025)。
織田信長が革命的な動きをして時代が変わったという一般的な理解であったなか、研究が進み、信長の革新性についてもう少し保守的な要素があったのではないかと指摘されつつある。あるいは信長に先行する三好長慶の活動を評価する動きなど、16世紀の理解が変わりつつあるなか、大きな社会的な変化が起こったのは、三好長慶よりもう少し前ではないかと指摘がでてきていた。自身の研究の中で、織田信長や三好長慶に先行するゲームチェンジャーとして細川政元を評価できるのではないか。本書ではそのような書き方をした。
つまり、戦国時代は細川政元・三好長慶・織田信長の三人のゲームチェンジャーにより、安土桃山時代へと突入したと言えるのではないか?という古野氏の細川政元の評価に対する新たな提唱なのである。細かい内容はぜひ本書を読んで“先例としての政元”を読んで確かめてほしい。
本書の課題
本書で興味深いのは、政元のオカルト的な要素も政元の政治的意図があったとしていることである。たとえば、政元の修験道の師匠とされる司箭(しせん)という人物は宍戸氏(安芸国衆)の人物であり、薬師寺元一(細川氏の重臣)の乱の際に救援に来ている。これらの事例から、修験道を通して全国へのネットワークを作り、情報のやりとりを円滑にしようとしていたと推測している。
たしかに興味深い視点ではあるが、ここで注意したいのは宍戸氏の救援が結果論の可能性があるということである。政元が修験道に没頭した理由にすべて政治的な意図が含まれていたとするのも極端であり、政元の個人的な趣味に副次的利益が援軍というかたちで現れた可能性も捨てきれない。
また、政元は「公武合体」の政権構想を持っていたのであろうか。本書では、細川政元は細川澄之(九条政基の子)を養子としたことから、細川政元には「公武合体」の意思があったとしている。しかし、近年ではこのような見方は疑問視されている。それは政元が当初は近衛政家について打診するも断られ、その後、九条政基が競望した結果として澄之は政元の猶子になっているからである。もし、本当に細川政元が「公武合体」の政治構想を持っていたのであれば、最初から九条政基へ政元側から話がいくはずである。まったく等閑視するのも問題ではあるものの、この後に起こる明応の政変の結果を前提に議論を組み立てるのは危険であると考える。細川澄之と足利義澄の縁戚関係は偶然の結果論であったとみるほうが妥当であると筆者は考える。
最後に84ページの応仁の乱の構図であるが、「足利義政」となるべきところが「畠山義政」となっており、存在しないはずの管領将軍が誕生していた。筆者が購入したのが第一版であるためすでに誤字の訂正がされているかもしれないが、第一版を購入した、あるいはされる読者の皆様には注意していただきたい。
【参考文献】
岡田斗司夫「#551ぐんぴぃ、土岡哲朗 (春とヒコーキ) ゲスト回」(岡田斗司夫、2024年12月1日、https://www.youtube.com/watch?v=4OUxxhoQNis)
ミスター武士道「【対談企画】なぜオカルトを信じるのに比叡山を焼けるのか?中世人の宗教観を考える『オカルト武将・細川政元』著者・古野貢教授ゲスト」(戦国BANASHI【ミスター武士道】、2025年7月13日、https://www.youtube.com/watch?v=mkdZl-fCHSU)
天野忠幸編『戦国武将列伝 畿内編【上】』(戎光祥出版、2022年)
今谷明『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店、1985年)
車谷 航「応仁・文明の乱後における足利義視・義材父子の将軍家継承と室町幕府」(『年報中世史研究』50、2025年)
山田康弘「明応の政変直後の幕府内体制」(同著『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館、2000年、初出1993年)




