今回の記事では、遠江北部の犬居にいた国衆の天野氏を取り上げます。天野氏は伊豆の出身で、鎌倉幕府創業の功臣だった天野遠景の子孫にあたります。鎌倉時代に遠江北部の山香荘(静岡県浜松市)へ移り住み、戦国時代まで犬居(同前)を本拠地としました。

戦国時代の天野氏の当主だった藤秀は、「景貫」の名で知られていますが、同時代の史料から「藤秀」だったことがわかっています。藤秀は虎景の子でしたが、幼少の頃に父を亡くし、家督を一族の景泰に奪われてしまいます。犬居領全体の支配を目論む景泰に対し、藤秀は父の虎景から相続した遺領を今川氏から認められます。今川氏としては、天野氏一族を並立させ、今川氏への忠節を競わせることによって、国衆の統制を狙ったようです。

武田信玄が信濃の伊那郡を領国とした際に、現地の国衆だった遠山氏は遠江の天野氏に仲介を依頼し、信玄から赦免されています。このとき、天野氏の使者として信玄と面会したのが藤秀でした。武田氏は天野氏と交渉するにあたって、当主の景泰と共に、一族の藤秀にも進物を送っています。

今川義元が三河へ侵攻すると、天野氏もこれに従って三河へ出陣します。天野氏をはじめとする遠江国衆は、今川氏から本領を安堵される代わりに、三河での戦争に従軍していたことがわかります。義元の死後、遠江で反乱が起こると、天野景泰・元景父子も今川氏から離反しますが、藤秀はこれを討伐し、家督相続を今川氏真から認められました。天野氏の当主となった藤秀でしたが、今川氏の滅亡という危機に際して、存立の危機に立たされます。今川領国時代の天野氏については、拙著『国衆の戦国史』(洋泉社、2017年)で詳しく書いていますので、ご参照ください。

さて、今川氏の滅亡に際し、天野藤秀は今川氏真から協力を求められます。その一方で、徳川家康からも所領安堵を受けています。また『甲陽軍鑑』によれば、武田信玄に人質を提出し、武田軍を遠江に引き入れる工作を行っています。

本来、このような行為は今川氏に対する「裏切り」と見なされます。しかし、天野氏は自身が生き残るために、このような行動をとったと評価することができます。大河ドラマ「真田丸」で、真田昌幸がとった「表裏比興の者」そのままの行動です。

その後、遠江が徳川氏の領国になると、天野藤秀は徳川家康に従属しました。しかし、武田氏と徳川氏が対立関係となり、武田軍が遠江へ侵攻すると、今度は武田氏に従属します。これも、自身が生き残るための行動と評価できます。

しかし、武田信玄が死去した後、武田軍は甲斐へ撤退し、武田方の最前線にいた天野藤秀は徳川軍の攻勢を受けることとなります。徳川家康は天野藤秀を討伐するため、浜松から犬居まで攻め寄せますが、犬居城(浜松市)を攻略できず撤退を開始します。この好機を、藤秀は見逃しませんでした。徳川軍の一員として戦いに参加した大久保忠教の『三河物語』には、山中での戦いが詳しく記されています。

山中から矢を放つ天野軍に対し、徳川軍は鉄砲で応戦しますが、敵がどこにいるかわからず、大混乱に陥り、多くの死傷者を出しました。装備や兵数で勝る徳川軍に対し、天野軍は地の利を活かして大勝利を収めたのです。戦国大名徳川氏が国衆の天野氏に敗れた屈辱は、家康の脳裏に深く刻まれました。

しかし、武田軍が長篠で織田・徳川軍に大敗した後、天野藤秀はさらに不利な状況に置かれることとなります。徳川軍に再び本拠地を攻められた藤秀は、ついに犬居から落ち延びました。その後も藤秀は遠江の山中でゲリラ戦を展開し、徳川軍を大いに苦しめました。武田氏が滅ぼされると、天野藤秀は北条領国へ逃れ、北条氏照に仕えて関東で戦います。北条氏が滅びた後、藤秀は行方不明となりますが、最近の研究で、天野氏のその後の足取りがわかりました。天野氏は豊臣秀吉の家臣で浜松城主となった堀尾吉晴に仕え、吉晴の弟で二俣城主の氏光と天野藤秀の娘が再婚しています。関ケ原の戦いの後に堀尾氏が松江に移されると、天野氏もこれに従いました。

堀尾氏に跡継ぎがなく改易された後、天野氏は福山藩主の阿部氏に仕えます。ここに面白いエピソードがありました。江戸時代に「天野藤秀の子孫はどこにいるか」と照会がかかったのです。その理由は「天野氏が家康から憎まれている」というものでした。

結局は「お構いなし」ということになりましたが、幕府から「天野氏に3000石以上を与えてはならない」というお達しが下されました。「犬居崩れ」で受けた屈辱を、家康は生涯忘れていなかったのです。このように、天野氏は国衆としては没落しましたが、江戸時代まで存続することができました。新たに判明した天野氏の足取りについては、『浜松市博物館報』31号(浜松市博物館、2019年)に載っている私の講演録「戦国時代の浜松と国衆」をご参照ください。