本書は、戦国大名甲斐武田氏の最後の当主である武田勝頼についての研究書である。勝頼の政治・経済・軍事・外交・合戦・城郭に関係する重要論文20本と、これまでの勝頼および武田氏研究を総括する総論を収録している。いずれの論文も、武田氏を研究するうえでは必読すべきものであり、これまでに勝頼があらゆる視点から深く掘り下げられていたことをあらためて教えてくれる。初出を明記したうえでの目次が以下の通りである。
序にかえて
総論 平山優「総論 武田勝頼の研究」(新稿)
第1部 武田勝頼像の変遷
Ⅰ 徳富蘇峰「武田勝頼」(田中春厳編『武田勝頼公と法泉寺』法泉寺、1935年)
Ⅱ 山路愛山「勝頼決して侮るべからず」(前掲『武田勝頼公と法泉寺』、1935年)
第2部 信濃諏方と武田氏
Ⅰ 小林純子「戦国時代の諏訪湖の漁業と諏訪社―「船別銭」と「網渡銭」を中心にして―」(『信濃』42巻11号、1990年)
Ⅱ 小林純子「武田勝頼の諏訪社再興政策」(柴辻俊六・平山優編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年)
Ⅲ 長谷川幸一「天正六年の諏方社造宮事業と造宮帳作成について」(『駒沢史学』76号、2011年)
第3部 武田勝頼の領域支配と軍事力編成
Ⅰ 黒田基樹「武田勝頼の領国経営」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
Ⅱ 柴裕之「武田勝頼の駿河・遠江支配」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
Ⅲ 栗原修「武田勝頼の上野支配」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
Ⅳ 丸島和洋「戦国大名武田氏の西上野支配と箕輪城代―内藤昌月宛「在城定書」の検討を中心に―」(『地方史研究』369号、2014年)
Ⅴ 平山優「武田勝頼の軍事力編成」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
第4部 武田勝頼の外交
Ⅰ 丸島和洋「武田勝頼の外交政策」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
Ⅱ 黒田基樹「甲相同盟と勝頼」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
Ⅲ 田中宏志「越甲同盟再考」(『戦国史研究』52号、2006年)
Ⅳ 海老沼真治「御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状」(『戦国史研究』65号、2013年)
Ⅴ 丸島和洋「武田・毛利同盟の成立過程と足利義昭の「甲相越三和」調停―すれ違う使者と書状群―」(『武田氏研究』53号、2016年)
第5部 武田勝頼の合戦と城郭
Ⅰ 平山優「長閑斎考」(『戦国史研究』58号、2009年)
Ⅱ 木下聡「長篠合戦における織田方の首注文」(『戦国史研究』71号、2016年)
Ⅲ 土屋比都司「高天神城攻城戦と城郭―天正期徳川氏の付城を中心に一」(『中世城郭研究』23号、2009年)
Ⅳ 山下孝司「武田勝頼と新府城」(前掲『武田勝頼のすべて』、2007年)
Ⅴ 閏間俊明「「隠岐殿」という地名と遺跡―隠岐殿遺跡出土の戦国期のかわらけに関する予察―」(『武田氏研究』55号、2017年)
第1部は、勝頼像の変化を辿るという趣旨なのだが、収録内容が個人的には驚きであった。明治から大正・昭和戦後期における歴史家・評論家である徳富蘇峰氏と山路愛山氏による武田勝頼の評伝が収録されているのである。筆者もかつて読んだことがあるのだが、両氏による評伝では勝頼の事績を肯定的に捉える部分が目立つ。勝頼を再評価しようという動きは、すでに戦前の時代から出始めていたことがわかる。
第2部は、勝頼だけでなく広く武田氏と諏方の関係に着目している。武田氏による諏訪大社(長野県諏訪氏・茅野市・下諏訪町)造営事業や神事祭礼事業は多くの関係史料が残されており、事業そのものが武田氏当主にとってどのような意義があったのかについて、同部収録の小林純子氏と長谷川幸一氏の論文は重要な位置を占める。
第3部は、勝頼の領国支配の実態と軍事力編成の内実に迫るという主旨になっている。関連する研究史が数多くあるなかで、本書では武田領国における各国の支配の概要を掴むことができるとして、柴辻俊六・平山優編『武田勝頼のすべて』(新人物往来社、2007年)に収録されている黒田基樹氏・柴裕之氏・栗原修氏・平山優氏の論文が再録されている。この分野の研究においてとりわけ重要であるのは、武田氏による領域支配の根幹を成す「郡司」システムではないかと思われる。これを深く理解するためには、同部収録の丸島和洋氏の論文も熟読必須となってくるであろう。
第4部は、勝頼外交の多彩さとその実績を追求したものとなっている。勝頼期の外交政策についての研究は近年になって大きな進展をみせており、同部収録の黒田氏・丸島氏・田中宏志氏論文などを中心として、常陸佐竹氏を始めとした北関東の諸大名や安房里見氏・安芸毛利氏・越後上杉氏との同盟関係と、天正7年から同9年にかけての織田氏との和睦交渉の実態が明らかになりつつある。
第5部では、長篠合戦や高天神城(静岡県掛川市)攻防戦、新府城(山梨県韮崎市)に関する新規点についての論文が収録されている。長篠合戦は、太田牛一が『信長公記』のなかで戦死者の首注文を記録したとある。この首注文は長らく所在不明であったが、近年写本が発見され話題となった。その伝来経緯と作成意義については、木下聡氏の論文によって明らかになっている。また、落城が武田氏滅亡の引き金となった高天神城や、甲府に代わる武田氏の新たな拠点である新府城は、勝頼の動向をみていくうえで等閑視できない。地形復元・発掘調査の成果や、そこからみえてくる当時の政治・軍事情勢は、土屋比都司氏・山下孝司氏・閏間俊明氏の論文にて確認していただきたい。
このほかに、同部に収録されている平山優氏による「長閑斎考」は、筆者の記憶に印象深く残っている論文である。これは、武田氏の二次史料『甲陽軍鑑』(以下、『軍鑑』)の史料的価値の評価に関わる議論である。同書は古くは「偽書」とみなされ、その史料的価値は評価されない時期が続いた。酒井憲二氏、次いで黒田日出男氏らの研究により、室町時代後期成立であることが証明されたのだが、依然として偽書の評価は残り続けた。その根拠が「長閑斎」問題である。
「長閑斎」はこれまで勝頼の側近長坂虎房に比定され、この人物は『軍鑑』において、長篠合戦の軍議の場で多くの重臣が織田・徳川連合軍との決戦に反対するなか、同じく勝頼側近の跡部勝資と共に決戦を主張して武田軍の大敗を招いたとされる。しかし、長篠合戦の前日に勝頼は自らの状況を知らせる書状を、別の場所にいる「長閑斎」に伝えている(神田孝平氏所蔵文書『戦国遺文武田氏編』2488号)。このため、長坂は長篠合戦にいなかったとみなされる。ようするに、長坂は『軍鑑』における創作上での物語を面白くさせる、いうなればヴィランとしての役割を背負わされていたとみることができ、これが『軍鑑』の信憑性に疑問が呈される要因となっていた。
しかし、上記の平山氏の論文によってその問題は一蹴される。長坂虎房の出家名は同時代史料でみると「釣」閑斎であり、勝頼が書状を送っていた相手は今福「長」閑斎であったことが判明したのである。つまり、勝頼が長篠の外に向けて送った書状の受給者は、長坂とは別人である。『軍鑑』を否定する最大の論拠は、このようにして完全に消滅した。これを読んだときの筆者は、酒井憲二氏らの研究に触れておらず、『軍鑑』の史料的価値は皆無と考えていたこともあって、非常に大きな衝撃を受けた。
ほかにも言及すべき論文は数多くあるが、紙幅の都合上、収録された論文のすべてを紹介することはできない。最後に、本書のなかでもっとも重要である総論について少し語っておきたい。勝頼の基礎的情報は無論のこと、本書に収録されていない関連論文と史料集が総ざらいで明記されたうえで、研究史上における現状と課題が明瞭に整理されている。これから新たに当該分野を研究したいと志す者にとっては、現状で何がどこまで明らかにされているのか、どの部分が研究課題として残されているのかということを判別する指標と成り得る。この総論から、各々で関心のある分野に沿った項目を、何度も読み込んで理解を深めていくことが大切になってくるだろう。
以上、あくまで筆者の関心に基づいてではあるが、本書の魅力を語ってきた。武田勝頼といえば、一般的にはその評価は否定的であるといわざるをえない。古くから「最新兵器・鉄砲を軽視した懐古主義者」「武田氏を滅ぼした暗君」などのレッテルが貼られ、実際に筆者も幼い頃は根拠なしに勝頼を低く評価していたことを覚えている。
そんな勝頼の再評価が世間に広まりだしたのは、2016年大河ドラマ「真田丸」の放送以降である。このドラマのなかで平岳大氏が演じられた勝頼は、これまでのドラマでみた猪突猛進に描かれがちな勝頼とは一線を画しており、滅亡を間近に迎え哀愁漂いながらも気高く生きるその姿は多くの反響を呼んだ。
しかし、勝頼の再評価そのものは、研究者の間ではその20年ほど前からすでに本格的に始まっている。武田氏自体、史料環境の整備が整っている影響もあって、戦国大名に関する研究史の蓄積量でいえば小田原北条氏に次ぐ存在というように評価される。先人たちによる膨大な研究量を追い切るのは容易なことではない。そのようななかで本書のような再録論集は、入手困難となっている論文の数々が一冊にまとめられており、若手研究者にとっては非常にありがたいものとなっている。大学の卒業論文で武田氏を扱おうとしている方にとって、本書は必読となろう。そのほかにも武田氏に関心がある方、本記事を読んで少しでも本書に興味を抱いた方は、是非手にとって熟読していただきたい。
【参考文献】
黒田日出男『「甲陽軍鑑」の史料論-武田信玄の国家構想』(校倉書房、2015年)
酒井憲二『甲陽軍鑑大成』研究篇(汲古書院、1995年)




