本特集のサブタイトル「かたちの力」は、近代日本文学の短編、菊池寛『形』(1924年)[1] 菊池寛『形』は青空文庫から引用から着想を得ている。
「……あの服折や兜は、申さば中村新兵衛の形じゃわ。そなたが、あの品々を身に着けるうえは、われらほどの肝魂を持たいではかなわぬことぞ」
物語の主人公・中村新兵衛は、戦国時代を生きた老将である。その赤い甲冑は、敵味方問わず人々に畏怖を抱かせた。だが、若武者にその甲冑を譲り渡した日、新兵衛は戦場で討たれる。衰えたのは技ではない。ただ、「かたち」が失われたのだ。
新兵衛は、いつもとは、勝手が違っていることに気がついた。……敵の突き出した鎗が、縅の裏をかいて彼の脾腹を貫いていた。
この一文が告げるのは、実体ではなく形式こそが、人々のふるまいを変えるという真理である。これはフィクションにとどまらない。我々の歴史のなかで、「かたち」が力そのものであった場面はいくつもある。かたち――それは制度や倫理と結びつくことで、ただの様式を超えた意味を帯び、権威を現前させる。そしてその象徴的な思想運動こそが、新古典主義である。中村新兵衛がまとう「赤い甲冑」とは、言い換えれば「正統性を帯びた様式」である。そして、その様式が、時に人を動かし、時に秩序を支える――まさに新古典主義の構造そのものである。
新古典主義とは、古代のかたちを復元することによって、現代に新たな力を召喚する運動である。かつてギリシャやローマが西洋世界に強大な社会・国家・権威を築いていた時代。その様式・比率・儀礼、そして建築は、政治と倫理と美の一致を象徴していた。18世紀末、このかたちを再び取り戻そうとした運動――それが新古典主義である。とりわけ重要なのは、この様式の復興がただの懐古趣味や意匠の選択ではなく、「正統性を可視化する権力の操作」であったことである。ナポレオンがローマ皇帝の冠を模して自ら戴冠し、ワシントンD.C.やナチス・ドイツの記念建築がギリシャ神殿のような建築様式を採用したのは、美への愛着ではなく、美を通じて「国家にふさわしい姿」を構築することを目的としていた。
この構造を切り拓いた人物こそ、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンである。
ギリシャ芸術に憧れた彼にとって、「美」とは理性と自然の均衡がもたらす倫理的なかたちであり、人間の精神的理想であった。それゆえ彼の提唱した古代美の模倣は、単なる技術的再現ではなく、「理念の継承」だった。 新古典主義はこの理念を社会化し、やがて制度化した。そして、国家は新古典主義の「かたち」を採用することで、自らを「普遍の秩序」として演出する。
ただし、この動きは西洋に限られた現象ではない。日本でも同じように「かたちの力」によって権威が演出された事例は少なくない。とりわけ江戸時代初期、徳川将軍家が行った文化戦略は、新古典主義的構造として注目に値する。
戦国の混乱を経て成立した新たな秩序は、過去の文化資源――室町・鎌倉・さらには王朝文化――の再編によって視覚化され、「寛永文化」として制度化された。たとえば、将軍の御成(大名屋敷への訪問)に際して用いられる屋敷空間は、過去の様式を忠実に再演することが求められた。御成儀礼における建築・設えが、かつての王朝文化や室町将軍家の儀礼構造を模倣することで、将軍家の“正統な形式”として再演された。調度・建築・儀礼、すべてが「過去の正統性」の記号を借りて、当時の権力を装ったのである。
また、狩野探幽が成した和漢画風の統合、将軍家による「源氏の後裔」としての自己演出などは、単なる復古ではない。都合のよい過去を選び取り、制度の中に再配置する――それはまさに、西洋の新古典主義と軌を一にする政治的文化操作である。
なぜ人は、「かたち」によって感動し、納得し、従うのか。なぜ、古代の石像の前で私たちは言葉を失うのか。そこに宿るのは単なる技巧ではない。精神の姿であり、秩序の約束であり、社会にとっての「正しさ」の視覚的象徴である。
だからこそ、それは美しい。 だからこそ、その美しさは危うい。
美は、理屈を越えて人に届く。だからこそ、新古典主義の「かたち」は、正しさそのものの仮面をかぶり、国家や権威の顔として機能してきた。だが、同時に我々は問わねばならない。なぜ私たちは、いまなおその様式に惹かれるのか。 なぜ古代の石像を前にして、胸が締め付けられるような「美しさ」を感じてしまうのか。
それは単に教育や習慣の産物なのか。それとも、そこには私たちがまだ手放していない「普遍」への希求があるのか――
新古典主義の遺産は、単なる帝国主義的演出ではない。それは、美に倫理を見出し、かたちに精神を託し、人間の内面を秩序化しようとした企図である。そしてそれが、ときに国家の顔となり、ときに芸術の墓標ともなる。
本特集では、「新古典主義とは何か?」という問いを、ヴィンケルマン的理念から、日本史における将軍権威の表象まで横断的に問い直す。それは単に様式の問題ではない。権威はいかにしてかたちをまとい、人はなぜそれに従うのか。その根源を問う、文化政治論である。
そして、我々の生きる現代でも、国家のモニュメントや公共建築に新古典様式の残響が響いていることに気づくだろう。駅前のモニュメント、大学講堂に刻まれたラテン語、市役所に並ぶ列柱、メイクアメリカグレートアゲイン。私たちの日常には、思いのほか多くの“新古典主義”が息づいている。かたちは消えていない。かたちは、語られることなく、しかし確実に「見る者」を支配している。まるで赤い甲冑を脱ぎ捨てた新兵衛の敗北が語るように、現代の私たちもまた、「かたちの力」のなかに生きている。
2024年5月11日(日)に東京ビッグサイトで開催されるイベント「文学フリマ40」にて、雑誌『ゆまにすと』を販売する予定である。本号の特集は「新古典主義――かたちのちから」で、ヨーロッパ・日本において、政治的な効果として用いられた新古典主義的な表現・儀礼についての論考6本と、執筆者による対談1本を収録予定である。本稿は、それらの記事の導入として執筆されたものを、WEB記事向けに一部改変したものとなっている。
なお、今回はいちょう倶楽部様のブース(O-50)の一部をお借りして販売をする予定である。「ゆまにすと」で探しても見つからないので、お気をつけいただきたい。
また、5月11日以降、雑誌の電子版をBOOTHにて販売予定である。文学フリマに行かないという方も、電子版にてお買い求めいただければ幸いである。





